「こども本の森 神戸」から考える、未来の図書館と『図書』の解体。
数年、新造の図書館が建てられる度、ある種の論争が起きているように思います。
最新のものでは、安藤忠雄設計の「こども本の森 神戸」でその問いかけを目にしました。
こういった論点を要約すると概ね下記でしょう。
「近年の図書館は、図書館としての本義を逸脱しており、書籍を蔑ろにした過剰にプロデュースされた空間となっている。図書館は(本義の意味での)『図書館』であるべきだ」と。
今回は、図書館そのものについて、そして、未来の図書館に収まるものについて考えてみます。
「図書館は『図書館』であるべきだ」、の『図書館』について
まず、この方の言う図書館について考えてみます。
おそらく、この方は『図書館』を文化保護施設として考えており、
今回の建築を「「書籍」を大事にしない見た目重視の図書館」として批判しているのでしょう。
こういう図書館は神戸のものが初めてな訳ではなく、過去には中野中央区図書館などなどもありました。
つまるところ近年は徐々に図書館の形が変わりつつあるのです。
何が契機かは知りませんが、この方の言うような図書館と実際の図書館とに乖離が生じているのは、図書館に求められるもの自体が徐々に変化しつつあるからだと考えています。
なぜ今図書館が変わりつつあるのか
図書館に求められるものが変化する、
そのことに対する私の疑問の一つは、「なぜ今か」ということです。
どうして、この2010年後半~2020年初頭において、図書館が変革しつつあるのでしょうか。
思うに、図書館には大きく3つのタームが存在しており、これは第3の図書館です。(雑)
1.研究機関としての図書館
図書館の歴史は古く、紀元前7世紀まで遡ります。
アレクサンドリア図書館はプトレマイオス朝ローマ時代にかけて存在した、歴史に名を残す大図書館です。
しかしながら最初期の、そして長きに渡り、図書館は研究機関であり万人に開かれたものではありません。
本が貴重であることに加え、知的特権階級の支配をより強固なものにもしていました。
図書館は知識の研究機関であると同時に、叡智独占の体現でもあったのです。
2.公共空間としての図書館
図書館が公共に開かれたのは、なんとそれから2500年後。
もちろん、それまでも局所的に図書館は開かれていたと思いますが、近代的な公共図書館のシステムは存在していません。
1850年頃にアメリカとイギリスのそれぞれで制定された公共図書館法を皮切りに、世界中で「公共図書館」が作られました。
おそらく大雑把には現代の図書館はこの延長線上にあり、公共性に差はあれど、書籍だけがある図書館もカフェのある図書館も、等しく第2タームの図書館でといえます。
近年はその拡張である「ラーニングコモンズ」「インフォメーションコモンズ」や「サードプレイスとしての図書館」などが研究されているように思います。
3.『図書』解体後の図書館 - 未来の図書館
第2タームの図書館と第3タームの図書館を切り分けるのは、恐らく『デジタル』です。
2010年代の急激なIT技術の発展により、書籍は唯一無二の叡智伝達手段としての優位性を失い、遂には数ある手段のひとつにまで身を落とします。
ネットの海に膨大な叡智が見つかるなら、わざわざ本屋や図書館に行く必要はないでしょう。
その上、Amazonなどのオンラインモール、電子書籍を始めとする電子コンテンツの台頭、あるいははたまたYouTubeの解説動画などにより、ますます本屋と図書館はその価値を見失いつつあります。
つまるところ、今や『図書』は解体されつつあるのです。
この2500年起きえなかったことですが、デジタルによってついに物理メディアとしての本と、本が持ちうる情報とが切り離されました。
これまではそのふたつが一致していたからこそ、図書館には『図書』を収蔵する意味が存在していました。
第3タームの-これから作られる-図書館は、もはや『図書』が解体されていることを念頭に置かなければいけません。
旧来的な第2タームの図書館は求心力を失い、時代遅れになってゆくのです。
もう一つの理由
そして、忘れては行けないもう一つの理由は、資本主義そのものです。
何を作るのにもお金がかかる時代。
いまや公共事業も採算や価値を問われるようになり、図書館はどうしてもその利用率についての言及から逃れることは出来ません。
利用者の少ない図書館を救うために、本義をすり減らしながら大衆に魅力的にする。あるいは緩やかに滅びゆく道を選ぶしかありません。
2022年の図書館の評価軸は「蔵書クオリティ(量や質など)」と「施設としての年間利用者数」です。
本を大事にしているかどうかは数値目標にはならないので、倫理目標にしかなりえません。 悲しいことに。
未来の図書館にあるべきは
前記のように図書が解体されたのであれば図書館には新たな可能性があるはずです。少し考えてみました。
1.未来の図書館の価値は、司書?
図書館の価値は図書そのものと思われがちですが、「図書が整理・管理されていること」に自体に価値はないでしょうか。
現代においてネットの海には情報が荒れ狂い、普通の人には目的の情報にたどり着くことすら難しいでしょう。近年はより低質な情報が跋扈するようになり、検索力-ググる力-は正しい情報を掴むための必須スキルとなりつつあります。
しかしながら調べることを誰かに頼むわけにもいかず、せいぜい詳しそうな知り合いに聞くのが関の山でしょう。その先のことになると、専門家に聞くことになります。
図書館において専門家とは司書であり、彼らは相談に乗ってくれます。
図書館で買う本を選ぶのも司書ですし、利用目的に合わせた本をレコメンドするのも司書です。
そのレコメンドのことをレファレンスサービスといいます。
世間はこういったものをAIに兌換できるといっていますが、AIは関連図書の提案はできても、おそらく2022年のそれは人気度ベースや分類分けによるレコメンドでしかなく、価値のあるレコメンドとは異なるのではないでしょうか。
私自身は、AIは今話題の本をレコメンドで来ても、本当に価値のある本、のレコメンドはまだできないように思っています。(本における価値が何であるかという議論は置いておいて)
2.物理書籍とセレンディピティ
物理的な本自体の良さはなんでしょうか。
私は少なくとも2週間に1回くらいは本屋に行くのですが、どうしてそれほど本屋に行くかというと、本屋の価値を「気になった本がすぐ読め、買えること」そして「気になる本に出会えること」だと思っているからです。
電子書籍ツールでは''立ち読み''が出来ますが、物理的な本の手軽さには遠く及びません。
これはツールとしての小慣れの問題なので、10年後には解決しているかもしれませんが、2022年にはまだまだ大きな価値となっています。
思うに、今後本屋や図書館が重視するべきは、「棚にある本がなんとなく気になった」「目的の本の隣にある本が気になる」という「気になる本に出会える」セレンディピティではないでしょうか。
一冊しか売らない本屋さん
私がセレンディピティで思い出したのは、銀座の森岡書店です。
森岡書店は本を一冊しか売らない本屋として話題になり、店主の森岡さんが選んだ本が一冊だけ置かれているのです。
いわゆる物量でのセレンディピティではなく、目利きによるセレンディピティではあるのですが、本が一冊しか置かれてなかったらだいぶ気になりますよね。
物理的に本が一冊しかない、というプレゼンテーションも非常に強い演出です。
選び抜かれた少ない本しか置いてない図書館、というのもありかもしれません。どんな本が置かれているんでしょうね。
いっそのことどうですか、「現代社会を生きるための100冊」しか置いてない図書館とか。結構バチバチに人気が出そうな気もしてます。
3.図書館が情報を選んだら
1と2はそれぞれ『図書』における媒体を尊重し、1ですらギリギリ''情報''そのものを選択したものではありませんでした。
もし仮に図書館が書籍ではなく''情報''を選択するとしたら、『図書館』は情報の全てを集約する場所になるでしょう。
今や音楽だって映画だって図書館には収集されているのですから、TwitterやYouTubeの動画だって保存されるに違いありません。それらは等しく情報なのです。
そういえば昔、米国議会図書館が全てのツイートを保存するという話がありましたね。はて、と思って調べて見たら10年前。
今はその規模を縮小して居ますが、彼らにとって図書館とは『図書』ではなく『情報』を司る場所なのでしょう。
あと10年くらいしたら、図書館の代わりに『情報館』が生まれてくるんじゃないでしょうか。
その後の10年くらいはみんなに図書館と呼ばれるのだと思いますが、徐々にそういった名前に取って代わられるかもしれません。
終わりに
というわけで今回は図書館の未来をそぞろに考えてみましたが、実際はどうなるんでしょうか。
未来にはこのnoteだって、その収集の対象なのかもしれません。
あと、これから少しづつ読んだ文献をメモっていこうと思いました。大事だね。
いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!