三種類のトマトソースの話
夏空の2020年8月、梅雨明けは遅かったが毎日夏日が続いている。
海へ行きたいと思いながら、どこにも行けない夏というのも経験がないことだ。
気温や湿度、季節の香りが旅の記憶を呼び覚ます。
おいしかったものや、楽しかったことが、再編集された記憶として甦ってくるようだ。その記憶を辿る旅へ出てみよう。
キッチンとダイニングから、世界の国へ行けるかな。
2016年の10月、僕は晴天のイタリアにいた。
ミラノのホテルに迎えに来てくれた“ニコ”は、まだ三十前のような若い青年だった。が、そのファッションはなんとも70年代っぽいというか、ちょっと不思議な雰囲気だった。ミラノから、ポルトフィーノまでの道程は約200kmほどだろうか。高速道路をひた走り、くねくねとした道路をこれでもか、というくらい何度も曲がってようやくと目的地へと近づいていった。このせまい道路に車が押し寄せれば、あっという間に渋滞の中に置かれてしまうだろうと思った。カーブの合間から見える海の水がとてもきれいで、ハイシーズンが過ぎたリゾート地は、人が少なくて心地よかった。
目指すホテル、ベルモンド ホテル・スプレンディドは、丘の上に建つクラシカルな高級リゾートホテルだ。急な坂道をニコの車が上がっていく。きれいなホテルが見えてきたが、あちらこちらで大きな木の枝が折れているのが目に入ってきた。大きなテラコッタの鉢が割れていたりもする。シーズンオフとはいえ、何だか荒れているなぁと思いながら、ホテルのファサードに到着した。ニコにロングドライブのお礼を言って、ホテルマンに荷物を渡した。チェックインに向かうロビー近くのガラスも割れてしまった様子だった。
「ようこそ、ベルモンド ホテル・スプレンディドへ。お待ちしていました。しかしながら昨日、トルネードの直撃を受けて、ホテルはお客様をベストの状態でお迎えすることができません。心よりお詫び申し上げます。つきましては、滞在中のお部屋をアップグレードさせていただきます。また当ホテルのレストランでのお食事をサービスさせていただきます。昼でも夜でも、いらっしゃりたい時にお声がけください」
チェックインの手続きの間に、ホテルのフロントマンは、にこやかに伝えてくれた。なるほど、そういうわけでホテルが荒れた様子だったのか、と納得して部屋へと向かった。細長い印象の部屋は、とても明るくて気持ちがよかった。バルコニーに出れば、リグーリアの海を見ることができる。大きな庭では、あちらこちらかで倒木のかたづけが行われていた。働いている人たちには申し訳ないのだが、しばらくのんびりと過ごせてしまいそうで、楽しい気分になった。そこへホテルからのプレゼントとして、スパークリングワインのボトルが運ばれてきた。このときも、ホテルの景観を侘びて、ゆっくりしてくださいと言っていた。いそいそとボトルを開けにかかるとガスの圧がかかっていて、フタが“ポンッ”と音を立てて開いた。そのときのビックリした間抜けな顔が、その油断ぶりを物語っていた。
ひと休みした昼過ぎに、ランチを摂りにレストランへ。途中フロントに立ち寄って「いまからランチを食べたいのですが」と聞くと、「もちろん」と笑んで、席まで案内してくれた。景色のよい席に座って、チンクエテッレの白ワインを頼みながら、メニューを読んでみた。
THE SPLENDIDO LIGURIA CLASSICSという項目の中に、Spaghetti trafilati al bronzo alla Elizabeth Taylorというのがあった。どうやらこのレストランのスペシャリテのひとつのようだった。サンマルツァーノ、ソレント、パシーノのフレッシュトマトを使った、トマトソースのスパゲッティで、かのエリザベス・テイラーのお気に入りなのだそう。彼女は、結婚の度にこのホテルにやってきて、レストランでこのパスタを食べたのだという。さわやかな酸味を思い描いてこのパスタを頼んでみた。選び抜かれたスパゲッティに三種類のフレッシュトマトの異なる酸味と甘さが混ざり合ったパスタだった、のだろうか?
実は、その味わいを正しく思い出すことはできない。もしかしたらバターをかくし味にしたリッチな味わいだったのか…今はもうピントの甘い写真をながめて想像するくらいしかできないでいる。滞在中、たいして遠出をしなかった僕らは、昼を近隣のレストランで楽しんで、夜はホテルのレストランでのんびりと食事をして過ごした。
このポルトフィーノの街では、小さな港にあるレストランへと出かけた。海の近くだから、新鮮な魚介をたくさん食べることができた。その店では、よく冷えたヴェルメンティーノを飲みながら、インサラータ・ディ・マレを食べた。フリットも食べた。店主であるおじいさんが、皿を運んだあとに背中をポンと小さくたたいて「ボナペティ」と声をかけて小さくうなづいてくれたことを、いまも思い出すことができる。
港の散歩とランチの組み合わせも、毎日の日課のようになってしまい、同じように散歩している同じホテルの旅行者とも顔みしりになった。マリーナ・ポルトフィーノであいさつを交わし、考えごとをしながら歩き、レストランに入ってワインを頼む。ときにはアンチョビとバター、パンをもらってつまみにしたりもした。いずれも濃厚な味わいでとてもおいしかった。三種類のトマトのスパゲッティに思いをめぐらせながら、本場のジェノベーゼを食べ、ボンゴレを食べ、魚とじゃがいもを平らげて、コーヒー(エスプレッソ)を飲み、食後の散歩をしながらホテルへの道を歩いた。
この旅の食事をさらに記憶に刻んだのは、帰りのチェックアウトのときだった。部屋のバルコニーから、ニコの車が迎えに来てくれたのが見えた。イタリア人の女性を乗せているのかと思ったら、それは友人のキヨエだった。二人に手を振って荷物を頼み、フロントへと向かった。
フロントマンに「滞在はいかがでしたか?」と聞かれて「とても快適でした」と答えながら、会計をチェックしてみた。するとあの昼食以外にも夜は毎日ホテルのレストランを使っていたのに、そこには料金が記されていなかった。「食事の金額が抜け落ちてしまっているよ」と言うと、彼はにこりと笑って、「今回の滞在中のお食事は、私たちからのサービスです」と一切の食事代を取らなかったのだ。何という志の高いホテルなのだろうと、すっかり感心してしまった。
そんな断片的な記憶が集まって、再編集された料理が、三種類のトマトソースを使ったえびとたこのラグー。この夏、この味にたどり着き少しずつアレンジをしながら食べている。もちろんポルトフィーノを思い出しながら。だから、このパスタには、リグーリアの白ワインとか合わせて飲んだらいいと思うのだけれど、セラーを探してソアヴェを引っ張り出して「まぁいっか」と思い、食べながら飲んでしまう。そんなときには必ず、「ボナペティ」と声をかけてくれた港のレストランの店主が思い浮かぶ。「今度はせめて冷えたヴェルメンティーノを開けよう」と思うのだ。
3種類のトマトソースのレシピ
丸元淑生さんのトマトとアンチョビを使う料理レシピに旅の記憶を加えてアレンジしたトマトソースのレシピ。国内では、そのときに手に入る3種類のトマトを使っていろいろな味を楽しむのがおすすめ。糖度の高いトマトや、酸味の強いトマトなどを組み合わせて好みのトマトソースを見つけるのも楽しい。ちなみに僕は、季節のフレッシュトマト、イタリア産のホールトマト缶、ドライトマトの組み合わせで作ることが多い。
[材料]
フレッシュトマト1個(大きめ)
トマト缶1/2
ドライトマト4片
ニンニク1片
鷹の爪1/2〜1本
オリーブオイル 大さじ2
アンチョビ 4〜5枚
塩、コショウ
[つくり方]
1 鍋にオリーブオイルを入れて弱火にかける。
2 細かく切ったニンニク、種を取った鷹の爪(フレッシュな青唐辛子でもいい)を入れて香りが出るまで炒める。
3 ニンニクが香ってきたら、カットしたフレッシュトマト、ドライトマト、ホールトマトを入れて煮ていく。
4 フレッシュトマトが煮崩れてきたら、アンチョビを入れて蓋をしてに崩れてきたら混ぜ合わせて味を見て、コショウ、足りなければ塩で調味して出来あがり。
※えびとたこのラグー
3種類のトマトソース(4)に、えびとたこ各 約60グラムを細かく切って入れて加熱する。熱が通れば出来あがり。
3種類のトマトソースに、たこと蒸した里芋を入れて煮込むのもおすすめだ。里芋の食感と味がたことトマトによく合う。(アンドプレミアム誌9月号では「タコとアンチョビ のトマト煮」として紹介いただいた)
VOL.01 14TH.AUG.2020
遠藤一樹(えんどうかずき)
株式会社イーター 代表取締役
プロデューサー、編集者、コピーライター、ライター
1961年、横浜市生まれ。桑沢デザイン研究所卒業後、デザイナーから編集者となる。『ホットドッグプレス』編集部を経て、いとうせいこう氏らとプロダクションを設立し、取締役を務める。多くの雑誌・書籍制作、広告制作を経て、1996年に制作プロダクションEater(www.eater.jp)を設立、代表取締役に。雑誌『asayan』を立ち上げ編集し、後に男性ファッション誌『HUGE』をプロデュースして創刊から10年間(2013年12月まで)制作を担当する。現在は、コミュニケーションツールやカタログ制作、ブランディングなどに携わる。もちろん編集と執筆も日々続けている。1994年から担当した丸元淑生氏の料理書、書籍は7冊。食に対する考えとライフスタイルに大きな刺激と影響を受け現在に至る。TCC会員(東京コピーライターズクラブ/1998年新人賞受賞)。