ディベートによくある誤解~ディベート教育は有害か?
ディベート教育は有害なのか?
前回までディベート教育は重要だというお話をしましたが、時にディベート教育は好ましくないのではないかという意見もあります。トレーニングとしてのディベートという視点にたつと、よく言われる事が誤解であることに気づきます。今回はその誤解を解いていきましょう。
ディベートで良くある誤解
ここでは、代表的なディベートに対する誤解を取り上げたいと思います。代表的なものとして以下のようなものが考えられます。
ディベートで良くある誤解
・ディベートは、誰かを言いいくるめる、白を黒という詭弁だ
・ディベートは、口が上手い奴が勝つだけだ
・ディベートと実社会は違う、世の中論理じゃない
・自分の考えとは違う事を話させるなんておかしい
もし、皆さんの中でそうだなーと思う事があれば、それはトレーニングとしてのディベート、議論教育としてのディベートという観点で体験できなかったせいかもしれません。ここでは、議論教育、トレーニングとしてのディベートという観点からすると、上記が誤解であることをお話しようと思います。
よくある誤解1~ディベートは、誰かを言いいくるめる、白を黒という詭弁だ
勝敗はつきます。しかし、言いくるめても勝てません。なぜなら、根拠に基づいてジャッジが判断するからです。どんなに言いくるめたとしても、根拠がいい加減であればそれは説得力を持ちません。また、お互いにディベートで訓練された人の対戦は片方を言いくるめられるような楽な試合にはなりません。万が一、実力差から言いくるめたような結果になったとしたら、教育者がそれを指摘して改善するべきです。
ディベート教育の有無にかかわらず、言いくるめようとする人はいます。そうであるならば、早い段階から議論教育を行う事で、そういう議論のやり方はダメなんだ、好ましくないんだと学習させることが重要です。そして、将来言いくるめようとしてくる相手をしっかり見抜いていくための力を身につけるのは極めて重要なことではないでしょうか。つまり逆説的に言えば、白を黒と言いくるめるような人がいるからこそ、議論教育、ディベート教育は必要だと言えます。
よくある誤解2~ディベートは、口が上手い奴が勝つだけだ
確かに堂々とスピーチする事は極めて重要です。言語を扱う競技である以上、その重要性を否定するわけではありません。しかし、調査型でも即興型でもディベートは必ずそこに根拠が必要になります。そして、それを判断するのは審査員です。おどおどしながら気弱に正しいことを話す人と、堂々と威勢よく中身のないことを話す人が戦えば、前者が勝つのがディベートです。逆に言えば、口が上手いだけの人を見抜き、雰囲気だけで持っていこうとするスピーチやフェイクニュースなどを的確に見抜く技術がつくはずです。
・よくある誤解3~ディベートと実社会は違う、世の中論理じゃない
もちろん違います。ディベートは教育訓練ですので、その学びを現実に即して実践する基礎的な力です。世の中が論理だけで動いていないのはまったくもってその通りですが、感情だけで判断していいと思っている人はいないと思います。非論理を知るためには論理をしらなくてはいけません。また、実はあの人は論理的ではないと思っていたとしても、実はその人の立場にたって論理的に考えるとすごく論理的である場合があります。例えば、このプロジェクトが成功したら給料があがる!といった時でも、仕事が残っているのに、残業せずにすぐ帰宅してしまうメンバーがいるとします。自分としてはここで実績を出すのが重要と考えていれば、この人の行動は理解できません。しかし、もしこのメンバーが出世に興味がなく、仕事は最小限に抑えてプライベートを充実させたいという考えならこれは極めて合理的な行動です。このように相手の立場にたって論理的に考えると、自分の中では非論理な行動も理解できるようになります。世の中論理的でないというのは、異なる価値観を持つ人がいるという事です。その人の心を理解するには、論理というのは有効な手段の一つなのです。ディベートでは、このように相手の立場にたって物事を考えるという事を自然と学べます。例えば、同じ論題でも肯定と否定の両方の立場を実践しますので、それぞれの立場で強制的に考える事になります。また、ジャッジを説得するゲームですので、ジャッジの立場にたつ方が勝ちやすくなります。(このジャッジの立場にたって議論を行っていく事をジャッジアダプテーションといいます。)
・よくある誤解4~自分の考えとは違う事を話させるなんておかしい
自分とは異なる価値観を知るため、他者を理解するために相手の立場にたって考えるためのトレーニングです。まずは自分の考えを持つべきだという事もありますが、大学の授業でもいきなり考えてみろとは言わないはずです。まず、学説に沿って学問の基本的な考えや枠組み、いままでの議論などを勉強しながら、自分の考えを構築していくように指導されているのではないでしょうか。その意味では、ディベートで取り扱うような難しい問題については、賛成反対それぞれの論拠を知りながら、最終的に自分の意見を持てばよいのではないでしょうか。ディベートをやっていると、「どちらの立場でも話せますが、自分の意見は分からない」という学生も出てくるかもしれません。しかし、この問題もアフターディベートという手法によって解決可能です。これは、ディベートの試合を行った後に、最終的に試合を離れてどのように感じたのか、考えたのかを話してもらうことです。このようにゲームで終わらせず、それを基に現実問題としてどのように考えるべきなのかという点も含めて議論教育です。
ディベートはわざと対立軸を作ります。これは議論の訓練だからです。漠然としたテーマで議論しても、教育を受ける立場の学生たちにとっては普段から遠い世界の事でなかなか話しにくい。また、自分の立場を明らかにすることを嫌う学生もいます。しかし、こうしたロールプレイを与えられることで、むしろ堂々と話しやすくなるというメリットもあるかと思います。そこから徐々に自分の考えを話せるように指導していけばよいと思います。
ディベートは対立を助長させるのか?
ディベート批判の多くは、「対立」を強要させることから起因しているものと思われます。しかし、先に示した通り、ディベートは異なる立場に立つという経験をすることから、異なる価値観の立場にたって考える訓練が可能になります。繰り返しになりますが議論とは「よりよいゴールに向けて、異なる価値観の人たちが互いにリスペクトを持って行う共同作業」です。そしてそのためには、技術よりも先にまず「議論する相手に対してリスペクトを持つ」という事を何よりも徹底していく必要があり、それを知るために議論教育は必要であるといえますし、その前提にたつならばディベートは極めて有益なトレーニングになるはずです。
【ご参考】
なお、英語即興ディベートの分野で世界的に活躍されている加藤彰さんもディベートの誤解について論じられています。こちらもぜひご参照ください。
「いまだに誤解されるディベート ─ディベートの目的は"論破"ではない─」
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