【ディベート理論】認識論で考えるディベート理論ークリティークとメリデメ比較方式の対立原因
はじめに
今回のAOAは、少しマニアックなディベート理論の話になります。なお、本稿では調査型ディベートを対象にしています。本稿に限ってディベートとは調査型ディベートを指します。
調査型ディベートの勝敗決定方法というのは、ディベート甲子園では「メリット・デメリット比較方式(以下、メリデメ比較と記述」となっていますが、大学生以降のディベート大会では「論題を肯定・否定する」としか書かれておらず、論題を肯定否定する具体的な方法はディベーターに委ねられています。
ディベート甲子園ルールより引用
第4条 判定
第1項 試合の判定は,本条に基づき審判が行います。審判は、メリットがデメリットより大きいと判断した場合には肯定側、そうでないと判断した場合は否定側に投票します。引き分けの投票をすることはありません。
http://nade.jp/koshien/rule/index
JDA大会ルールより引用
第3条 (側)
1.ディベートにおいて、二つのチームは、肯定側、否定側に分かれる。
2.肯定側は、論題を肯定することをその役割とする。
3.否定側は、論題の肯定を妨げることをその役割とする。
4.論題の肯定、およびそれを妨げる方法は、ディベーターの議論に委ねられる。
このように、論題の肯定否定についてはディベーターが自由に設定できるという自由さから、ディベートではメリデメ比較の他に様々な方法が考えられました。有名なところでは、トピカリティー(T)、カウンタープラン(CP)などです。そして、近年ディベート界隈で大きな議論になったのがクリティーク(以下、K)と呼ばれる議論です。Kの定義については、現在アメリカでも統一的なものはなく、「既存の投票理由になり得る議論(メリデメ、CP、T)以外で投票理由になり得る議論」といった広い意味で使われているという見解もあり得ます。それでも、あえて簡単に言うならば、Kとは、「相手の議論の前提となっている考え方そのものを否定する事で投票理由とする」という内容です。
※クリティークについての詳細については、以下のblogが詳しいです。
https://ameblo.jp/canalun/entry-12330459900.html
本稿の目的は、クリティークそのものについてではなく、なぜクリティークがこれほどまでにディベート業界で意見が分かれるのかについて私見を述べたいと思います。
Kはメリデメ比較を中心とした今までのポリシーディベートへの批判を内在化している
まず、大前提として、Kは今までのポリシーディベートへの批判を内在化しており、存在自体が論争的だといえます。つまり、そもそもKというのは、論争が生まれるように作られているということです。その意味で、Kについて様々議論が行われているというのは、議論の目的としては正しく機能しているもいえます。Kがポリシーディベートの何を批判したかったのかについては、先に紹介したblogの中で様々紹介されていますので、興味を持った人は見てみてください。
なお、Kはアメリカで誕生しました。そのため、日本ではちょっと感覚が違う部分が多いと思います。例えば、マイノリティーに絡む差別の問題というのはアメリカと日本ではリアルさが全然違います。そういうバックグラウンドを理解した上で、読む必要があります。
その上で、語弊を恐れずに端的にいうならば、ディベートそのものについて論争する事を投票理由にしようとしたのがKだといえます。特にディベートが白人エリートたちが更に成功するためだけの方法論になっており、既存のディベートの中ではマイノリティーの議論が埋没しやすいという批判が、根底に流れている気がします。
社会科学における認識論の論争
Kはポストモダン哲学者たちがよく引用されます。つまり、アプローチとしてこれらの影響を受けているといえるでしょう。個人的には、Kについての論争は社会科学におけるパラダイム論争に良く似ていると思っていまして、この枠組みで考えるとディベート業界におけるKを巡る認識の差異を説明できるような気がしています。ということで、今回は野村(2017)で紹介されている社会科学のパラダイム論をディベートに適用してみようと思います。
野村によれば、社会科学のパラダイムには「実証主義」「批判的実在論」「解釈主義」の3つに大別されます。(野村、2017)結論を先に言えば、メリデメ比較は実証主義、Kは解釈主義となります。社会科学におけるパラダイム論争は1970年代ころから活発になり、1990年代に入ると重要視されるようになりました。この論争は基本的に「実証主義」に対する批判でした。それでは、今回の趣旨であるメリデメ比較とKの関係性だけに絞ってみていきましょう。
存在論の2つの立場
実証主義と解釈主義を理解するためには、その前段階となる存在論について理解しなければなりません。存在論とパラダイムは互いに結びついているのですが、存在論はより根本的な概念になります。存在論とは、世界の存在をどのように捉えるのかという考え方です。実証主義や解釈主義といったパラダイム=認識論は存在論に基づいて世界をどのように認識するのかという概念です。社会科学における存在論とは「私たちの知識の対象が(私たちとは独立して)そこに存在するのか、しないのか」という問いに対する立場です。
存在論には2つの立場があります。
1つ目の立場は、基礎づけ主義(foundationalism)です。この立場に立つ人は、知識や考えは疑いのない真実という基礎の上に組み立てられていると考えます。そのため、「真実」は独立して存在しているため、誰が見ても、ただしく見る事ができれば同じように見えるはずだと考えます。自然科学におけるデータの感覚に近いものです。例えば環境問題であれば深刻さや原因・結果について客観的に示す事が可能だと考える。このような考え方は定量的分析と極めて相性が良いため、だいたい環境問題の深刻さについてデータで示す事が多くなるわけです。
2つ目の立場は、反基礎づけ主義(anti-foundationalism)と呼ばれます。問題となる社会事象が存在するかどうかは私たちの解釈によると考えます。ここには誰もが見て同じ真実は存在しません。各主体がそれぞれの価値観に基づいて行う行為の中で定められますが、その過程は社会的・政治的・歴史的文脈による制約を受けます。例えば、環境問題について考えます。森林の増減は自然現象としても存在しているため、アマゾンの熱帯林の減少はそれだけでは問題になるわけではなく、それらは自身の知識や体験と結びつくことで問題として初めて認識します。しかも、日本にいるならば実感はまったくないはずで、問題だと程度では分かっていても、実感が薄く行動に結びつくような自分の問題として捉えるのが難しいという人も多いでしょう。このように各人のもつ「環境問題」という認識は、それぞれの解釈によって規定されると考えるわけです。
存在論とパラダイムの関係性ー実証主義者の傾向
存在論についてみてきましたが、このようにそもそも社会の見方そのものが対極となる考え方が基底にあります。そして、パラダイムとの関係でいうと、基礎づけ主義に立脚しているのが実証主義で、反基礎付け主義に立脚しているのが解釈主義となります。
実証主義は、データが独立して客観的に認識可能と考えますので、特に統計的アプローチと親和性が高い。そして、現実社会における国や企業といった多くの組織における政策決定方法として使われています。実証主義に基づく意思決定は功利主義と相性が良いです。客観的なデータ同士ですので、それは比較ができるので、メリットとデメリットの比較がやりやすい。(なお、功利主義というだけで強欲さ、格差拡大の温床と思う人がいますが、深く研究された功利主義は強欲さや格差の問題をも包括した概念として研究されています。功利主義については、児玉(2012)が入門編としておススメです)
こうした実証主義者と政策の親和性にについては研究でも指摘されています。例えば、野村(2017)は以下のように主張します「人間の行動を何らかの社会環境(の変化)への反応としてその関係を理解したり(行動主義)、ある社会的環境下における合理的な対応として捉えるため、それを客観的に明らかにすることを主眼」とする。結果として、実証主義者はこうした形で「科学的に」因果関係を明らかにしようとします。そのため、社会に対して何らかの影響を及ぼす「政策」について研究する分野で大きな力を持っていると言われます。改めて実証主義者がメリデメ比較と実に相性が良いことが分かります。
存在論とパラダイムの関係性ー解釈主義者の傾向
一方で、解釈主義は、実証主義とは対照的に社会は私たちの知識とは無関係には存在し得ないという前提に立ちます(反基礎つけ主義)。そのため、研究方法は研究対象となる主体の個人や集団がある活動や社会生活に対して行う意味付けが、どんな解釈によって生じているのかを明らかにしようとします。なお、ポストモダンあるいはポスト構造主義的な立場ですと、自由にふるまえる人間はいないとして、研究している主体の信条・考え方を生み出す言説に注意した分析となります。言説に注意のあたりは、言語Kを彷彿とさせますね。実証主義が因果関係を「説明する」ことを目指しているのに対し、解釈主義は関係性について「理解する」ことを目指しているといえます。
しかしながら、解釈主義研究は相対的なアプローチであるため、従来、科学的合理性を重んじる近代社会・近代国家における政策立案過程になじまないと指摘されてきました。実際に、客観的な因果関係で将来予測を導く研究には適さないため、残念ながらしばしば政策研究で軽んじられてきたといえます。しかしながら、近年になってこの傾向に変化が生じています。
実証主義に基づく政策論への批判
社会科学の世界において、実証主義一本槍だった政策研究に対して解釈主義的アプローチによる批判がされてきました。その理由について簡単に説明します。実証主義の世界においては、社会事象はデータ化され「客観的」「中立的」な科学的知となると考えます。そして、そのデータに基づく政治政策は「客観的」「中立的」であり、「事実」として認識されます。しかし、本当にそうでしょうか。例えば、定量的研究を行った結果、特定の人種による犯罪率が高かった。なので、この人種は犯罪を行う人種だとなるでしょうか。もちろん、そんなに単純ではありません。人種差別が激しい社会構造であれば、差別ゆえに犯罪に手を染めやすい環境に特定の人種が追い込まれているという事はよくあります。すなわち、実証主義アプローチだけでは理解できない事象が存在するというわけです。
しかしながら、上記の例では次のような反論もくるでしょう。人種差別があるのは当然分かり切っていることなので、それは実証研究の方法が不十分なだけなのではないか。賃金や貧困率などを入れて分析していけば分かるはずだ。これは、その通りなのですが、そもそも「人種差別がある」事が、なぜ事前にわかっているのでしょうか?例えば、日本に生まれ育った人でアメリカに行った事がない人であれば、黒人差別というのを実際に目撃したという人は少ないはずですし、仮に見たとしてもそれは1例に過ぎず、日本人同士のいじめと変わらないと認識してもおかしくはないのです。
つまり、生まれ育った環境の中で人種差別という存在があることを認識するような環境や言説に触れてきた。そして、そういう環境を許容する政治環境の国家に生まれ育ったからこそ、犯罪率と特定の人種が相関した時にこれは背景に人種差別があると理解できるわけです。
これは簡単な例ですが、人種差別とは異なり、実はまだ多くの人にとって自明になっていない差別構造や社会的課題は数多く存在しています。このように実は「客観的」に見えるデータが実はある種の政治性を持っている事を明らかにし、オルタナティブな知見(特に政治的弱者の知見)に光を当てることは意味があり、政策に対しても大きなポテンシャルを持っているといえます。つまり、実証主義的アプローチで分析する前に、まずは認識を変化させる必要性があるという批判です。そして、現在では様々な形で解釈主義的アプローチを政策に反映させるような研究が提示されています。
ディベートの話に還元すると
さてさて、本稿の目的であるディベートの話に戻りましょう。上記のように実証主義と解釈主義は社会を認識する方法論が違います。しかし、この両者には断絶に近いほどの違いがあります。「強調したいのは、存在論や認識論的立場は、その場その場で変えられるものではなく、また併用できるものでもない」のです(野村、2017)。更に強烈な比喩としては、存在論や認識論は「皮膚」のようなもので、脱いだり、着たりできる「セーター」ではないので、短期間に使い分けできるものではない(Furlong and Marsh、2010)わけです。
こうすると、Kがあれほどの論争を呼んだ理由が分かります。そもそも、考え方が違いすぎるので、分かり合う事は本当に難しいということです。社会科学の世界では、上記のように少しづつ歩み寄りが進んでいますが、それでもやはり分かり合えない世界が多いと私は思います。学際系の学会で、解釈主義者と実証主義者が互いに自分の方法論をぶつけあって譲らない光景は、よくある風景です。なので、学会では実際には、方法論によって学会が別れていて、それぞれの流儀で研究を進めているのが実情です。(なお、近年では両者を融合させるような研究もたくさん出てきています。しかし、それでも方法論と認識論は一貫性をもって、区別されて記述されるのが普通です)
ただ、ディベートは残念ながら、ディベート甲子園以外は認識論を統一した大会を開いていないので、こうしたハレーションが起きやすい状態になっていると思います。時として激しい論争が出てくるのは、それが理由だと思います。「Kが出ると同じ競技をしているはずなのに、全然違う事をやっているようだ」という感想がありましたが、同じ競技じゃないと思った方がいいです。いわば、Kとは社会科学におけるパラダイム論争と同じでディベートという営みにおける認識論を争うというルールチェンジを議論しようとしているので、メリデメ比較とは別競技にするぞという話に他なりません。
なんで、ディベートで違うルールのものをぶつけ合うのか
なんで、理解しにくいのかが分かりましたが、次にこんな疑問が浮かびます。じゃあ、なんでディベートいう形式の中で、こんなルールの違うものが混ざり込んでいるんだということです。これは、ディベートをどのように捉えるのかによると思います。解釈主義者から言わせれば、我々がディベートという営みをしていること自体が、何かしらのメッセージに他なりません。ディベートは閉じられたものではなく、公的な議論空間だという認識です。解釈主義者は、「関係性を理解する」ことを目指しますので、ディベートコミュニティと社会の関係性について論題を通じて理解しようとする議論であるKを支持するわけです。
一方で、ディベートは訓練だ。という立場であっても、Kの存在は許容できます。つまり、実証主義ディベート=メリデメ比較は、既存の政策決定パラダイムの訓練としてディベートを捉え、解釈主義ディベート=クリティークは、政策に対する認識の選択を巡る訓練としてディベートを捉えるということです。何かの論題が提示された際に、無批判に実証主義的アプローチをとるのではなく、そもそも認識から切り替えるべき問だと認識する。更に言い換えると、論題に対して、実証主義は正しく問題を解くアプローチを訓練するとし、解釈主義は正しい問題に最設定するアプローチを訓練するという事になろうかと思います。そして、Kが入ることは特定論題(=社会問題)については、実証主義と解釈主義のどちらのアプローチがより正しい解を導けるのかという方法論について議論する訓練になると位置付けられます。
理解できないもの同士が建設的になるために
個人的に望むことは、Kという議論を巡って揶揄したり、罵倒に近いようなコメントで攻撃するのは辞めるべきです。一方で、Kを出す側もパフォーマンスKなどの方法論を先行させるのではなくて、先に述べたようなメリデメ比較では認識できないような課題を提示するような議論を出すことを目指すのがまずは重要だと思います。その結果、パフォーマンスKが適切だと思えば、それを出せばよいというだけだと思います。
Kもメリデメ比較も、私たちのディベート活動を豊かにするものであれば、どちらでも歓迎なのであって、カテゴリーでくくって可能性を潰すのはいい方法ではないでしょう。
精神としては上記の通りですが、恐らくこれに反論する人はいないと思います。では、具体的にどのようにすれば両者が互いを高めあうことができるのでしょうか。日本のディベートコミュニティにとって、これは現時点で結構な難問です。なので、解決策についてはまた別の論考にてまとめたいと思います。
終わりに
ここまで書いてきましたが、これは私の一見解であって、アメリカのKセオリーから見たら間違っているかもしれません。ただ、個人的にはこの枠組みで考えるのが分かりやすいと思いました。何より、私自身が社会科学研究の中で、何度もこの問題を見てきたので、そういう研究傾向がディベートでも起きているんだという事に、大変な面白さを感じました。
個人的には、メリデメ比較からも、Kからも学ぶべきところからは学んでいき、自分の見識をさらに広げていく事に興味を感じています。自らのディベート理論を構築するために、既存理論はどんどん利用すべきかなと思っています。
ただ、やっぱりディベートは楽しいのが1番なので、色々ありますけど、自分が一番楽しい方法でEnjoyしてほしいと思います。皆様のディベートライフが充実しますように。
【参考文献】
・野村康「社会科学の考え方ー認識論、リサーチ・デザイン、手法」2017、名古屋大学出版会
・児玉聡「功利主義入門ーはじめての倫理学」2012、ちくま新書
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