未成年⑧
七日目(Saturday)
目を開けていられないほどの風が吹き荒れ、鳥籠が倒れた。そのはずみで扉が開いてしまった。隙ありとばかりに鳥は逃げていく。僕は慌てて手を伸ばすが、鳥はもう遠い空を飛んでいた。僕の鳥は行ってしまった。僕を残して――そこで目が覚めた。夢を見ていた。昨夜、見る夢が悪夢であることを僕は予感していたが、今のは確かに悪夢と言えなくもない。僕はベッドのわきにある鳥籠を眺める。荻河から預かった無口な鳥だ。しかしなぜか夢の中では僕の鳥だった。それがどこかへ行ってしまったのだ。悲愴で残酷なリフレクションがありありと残っている。こうして起きていても僕の両目のスクリーンに映りそうなくらいに。
「どうしたの……?」
まだ半分眠っているような声で渚がそう訊く。僕が上半身だけを起こして固まっていたから訝ったのだろう。
「なんでもない。起こしたか、ごめんな。まだ寝てていいよ」
「うん。まだ眠い……」
そう言い終わると、もう寝入っている。僕は少しだけ笑った。渚の唇は中指と薬指が入るくらい開いていた。
僕は夢というものにとても重要な意味を感じる。夢、というのはつまり睡眠中に知覚する夢のことだ。希望としての夢ではない。僕はそちらの方の夢には意味どころか何も感じない。限りなく人間的な欲望に従いテラフォーミングにいそしむ有権者達に対しての軽蔑さえも出てこない。とにかく、僕は夢にとても重要な意味を感じる。限りなくタイリングされた浜辺のように捉えどころがなく、だからこそ強く追い求めてしまうのだと思う。僕は朝起きてすぐに昨夜寝てから覚えている夢の内容について考える。たくさんの夢を長い間見て、そのほとんどを記憶しているつもりでいる。だが事実としては、人が睡眠から覚めても忘れずにいられる夢というのはほんの数十分だけに限定されるらしい。何時間にも感じるのは、ただ夢の中の時の流れが現実とは大きく違っているからに過ぎないそうだ。夢には現実と同じような時間軸が存在しないのだ。それでもそれが真実なのかはわからない。夢というのは未だ不可知の領域が多く、研究でも解明されていないことが山積みだ。そもそも夢を見ることそのものの根本の理由さえわかっていないのだ。とても不思議だし、僕のように偏った考え方しか出来ない人間には到底答えを見つけられそうにない。見つけられるくらいなら、僕はもっと錚々たる殊績のパースペクティヴのある偉大な人間になっていたはずだ。それでも、不思議だからこそ神秘的で魅かれるのだろう。僕はいつもライトを消す時、今夜は一体どんな夢を見るのだろうと、なんとも言えない期待をする。その期待は大抵裏切られるが、別に腹が立ったり悲しくなったりもしない。また次の日同じように期待する。無害な上に優しい。
それにしても夢の内容の意味だが、あのよく見る青年の夢はどういう意味があるのだろう?僕が勝手に思っているのが正しく、ただ単に僕が兄に会いたいと思っているのがそのまま現れているだけなのか。それともまったく別の遠く圧倒的な意味があるのか。解き明かせたらすごいが、それはそれで生まれ変われない酸素と窒素が踊るように幻滅してしまうかもしれない。今のように、不思議に思っているまま青年の出てくる夢を見、起きてから悔しがっているのがきっと一番いいんだろう。そうすれば兄が僕のことを知らないなんていうランセットな認識ある過失に寄り添うような可能性は考えなくて済む。
***
一昨日の約束通り、僕は午前の通りを渚と二人で歩いている。美味いコーヒーを飲むこと、ただそれだけの為に。有効期限が切れて十字架にかけられたシグナチャーのように穏やかな気がするが、こうして渚がほんの少しの距離を保って並んでいると、また彼女のことを思い出してしまう。同時にどうしてだろうかとも思った。彼女と渚は繊維の触感から未完の残響まですべて違うのに。
彼女と僕の愛はとても濃密だったような気がするが、今考えてみるとたった一年足らずのものだった。イオからカリストまで数えれば終わってしまう時間だ。僕は他の物事をすべて忘れ去って彼女を愛したし、彼女の方もそれは同じだった。僕達は余すところなくその当時の“今”を燃やし尽くすようにして互いを愛した。あの時が止まってしまうなんて、しかもあんなに早く終わりが訪れるなんて、僕は思いもしなかった。ただ彼女のことだけを思い、冷静に考える理性を失っていたのかもしれない。僕は彼女の前ではいつだって唯一の鋭兵であろうとしたし、自明の理に従った暗線に導かれるかのように愛を追った。時宜を逃した帝国主義にまみれていながらも、立体的な断絶感を味あわされることもなかった。彼女を愛すことが理由であり目的であり結果だった。彼女と僕以外のものは、どんなに美しい音色のオルゴールでさえノイズに思えた。僕達は二つの半球であり合わせて一つだと思っていた。しかしそんな時も今となっては過去になってしまった……二千日弱の時が過ぎる間に、息も詰まるほどだった現実の事実はすべて過去の記憶に変えられていったのだ。僕はそれがつらくてならない。彼女が言ったすべての言葉を的確に正しく覚えていたい。もっと言えば、彼女の呼吸の全部までを覚えていたいのだ。だがそんなことが不可能だということはもうわかり過ぎている。やはりこの月日は少しずつ少しずつ、僕の激情を薄めていっている。時というものが僕の感情をリモートコントロールしているのだ。実際、当時のように正確に全景を頭に浮かべることはもう出来ない。しかしどんなにこれから僕が歳を重ねたとしても、あの時彼女が止めようとする涙がとてもまっすぐに流れていったのだけははっきりと覚えている。何があろうと忘れない。僕にはそれがわかる。
愛の為に命を差し出すなど信じられないことだと思っていたけれど、そんなことは別におかしいことではなかった。僕は彼女と一緒にいる上で、いつもそういう心構えでいたのだから。愛に生きるということは映画の中だけの話ではない。ああ、彼女に会いたい。しつこいのは承知だが、僕は彼女を愛している。しかし彼女のことを愛すにあたり、実体がないというのが大きく響く。当然と言えば当然のことだ。孤独に悩める悩みはシンプルに擬人化された排水溝に捨てればいい、そうすればきっとすべて解放される、そんな声がどこかから聞こえてきそうである。そもそも存在のないものに囚われているなんて、単なるばかな雑念に頭を支配されているのだと言っても過言ではない。だけれど止まらない。僕にはどうしようもないのだ。ただ彼女を愛している。
過去と別の過去とまた別の過去の間隙に揺られていると、突然渚が僕のシャツの肘のあたりを引っ張った。
「どうした?」
「かかとがものすごーく痛い」
「え?大丈夫か?」
そういえば先程から渚は僕のやや後ろを歩いていた。例によって僕は気が利かないので、なんとも思わずに歩き続けていたのだ。横暴な濾過のせいで不可避の儀軌を失ったみたいに顔をしかめて渚は言う。
「大丈夫ではないみたいです」
渚が履いているのは、まだ買ったばかりと思われる窮極なガランス・カラーのパンプス。しばらく見ているだけで網膜に張りついてしまいそうなほどまぶしい色だ。せっかくそんな綺麗なものを履いているというのに、今にも泣きそうな顔をしている。
「皮がむけたかも。痛い」
「仕方ないな。靴を交換してやる訳にもいかないし」
渚は僕の靴をちらりと見た。履き慣れ過ぎるほどに履き慣れた白いスニーカー。僕は慌てて手を振る。
「いや、これを貸してやるのはいいんだけど、問題は僕がそのパンプスを履けないってことなんだ」
「うん……残念。残念・無念・また来週だね」
「また来週?来年じゃなくて?」
「一年も待てないもん」
当たり前だというように渚がそう言うので、僕は何も返せなかった。
渚が泣き出してしまいそうになった頃、やっと喫茶店の外観が見えてきた。あの時とまったく変わらない様子を見て僕は、機械文明から少し離れた音をもう感じ始めている。
「ううー、やっとだね。ごめんね、せっかく連れてきてくれたのにこんなに幸先の悪いことになって」
「いや、謝ることじゃない。とにかく入って座ろう」
ガラスの嵌め込まれた扉を開けると、かろうじて流光の犠牲になっていない音がわずかに響く。
「わあ、レトロっぽくてすごく素敵」
渚は行き過ぎの中立主義のごときベルを見上げとても嬉しそうな声を上げた。
「いらっしゃいませ」
さわやかなマスターの声に、僕は自然と笑顔になりそうになる(もちろん笑顔になっても構わないのだが、そこはやはり気恥ずかしい。)。
「こんにちは、マスター」
「これはこれは。久し振りだね、ケイ君。元気そうでよかった」
「マスターこそ、お元気そうで」
マスターはなつかしくも今送り届けられたばかりのように微笑んだ。
「もう来てくれないのかと思ったよ」
「とんでもない。そんなつもりはありませんよ」
「嬉しいよ。よかった」
気心の知れ切ったマスターとそんな久し振りの言葉を交わす。まるで高校時代のようだ。もちろんつい一年と少し前までは本当に高校生だった訳で、まだそんな気分を引きずっていても特におかしいことはない。でも僕は高校生だった頃なんて既に半世紀くらい昔のような気がしている。この喫茶店にだってもう二十年以上振りに来たような感じだ。隔意のないモラリティがあふれる店内を見渡してみたが、カウンターに中年の男性が一人いるだけ。
僕以外の人間はみんな不幸になったって一向に構わない、と真剣に考えていた高校時代、初めてその主張の例外となったのがこのマスターだった。ここに初めて入ったのはセカンダリーの偶然の旗が揚がったからというだけのことだが、もしもあの偶然がなかったら僕は今でも他人全員を憎み続けていたかもしれない。僕が初めてこの喫茶店に入りコーヒーを注文した時、その時もたぶん誰かへの憎悪の血を脳に廻していた。そんな僕に、コーヒーを運んできたマスターがこう言ったのだ。
「世の中すべてが思い通りとまではいかなくても、手に届く範囲くらい自分の思うようになって欲しいよね」
いきなりそんな風に話しかけられ、当然僕はろりめいた。しかしなんということもなくマスターは続ける。
「本当に手に届く範囲だけでいい。そうしたら誰も卑下しなくて済むかもしれない」
「……そうかもしれませんね」
「まあ、飲んでみて。淹れ立てだよ」
僕には疎遠な声望に満ちた様子で穏やかにうながされ、カップに口をつける。まず澄んだ香りが、それから広い味わいが僕を覆う。それに僕はこれまでに飲んだどんなコーヒーよりも感銘を受けた。今考えてみるとなおさらだが、コーヒーに感銘を受けるなんてことがあるだろうか?本当に僕はありがたい目に遭えたのだ、と改めて思う。
「美味しいです……本当に」
僕は正直に感想を述べた。マスターは本当に嬉しそうに笑った。
「それはよかった。……僕が思うようになって欲しいことはね、僕のコーヒーにけちをつける人には、この店に来て欲しくないってことなんだ。なかなかそういう風にはいかないけどね。だから、ありがとう」
「はい。でも……どこにけちをつけるのか、僕にはわかりません」
「ありがとう、そう言ってくれて。でも、少なからずいるんだよ。何にでも文句を言わなきゃいけないような人がね。そういう人って、とても上手にけちをつけるんだ」
僕は店の中を見渡した。こんなにしゃれた店、なおかつこんなに美味しいコーヒー、この空間に含まれるものの一体どこにけちがつけられるのだろう?僕はそう不思議に思う。まるで窮極の間違い探しのようだ、と思った。
そんな一件があってから僕はしょっちゅうこの喫茶店に来るようになった。マスターと交わす短いけれど味のある会話がたまらなく好きだった。そして僕はいつの間にかマスターのことを人間として尊敬し始めていた。それは驚くべきことだったが、同時にそうであるべきことでもあった。僕はマスターと親しくなるにつれ、だんだんと“思いやり”とか呼ばれているものを持てるようになった。冗談のような話だが本当のことだ。
僕は渚と向かい合うテーブル席に座る。渚は席に着いてもずっと店の中を見渡している。
「照明がすごく綺麗だね……シャンデリアみたい」
「ああ、内装がうまく凝ってるよな」
渚と一緒になって店内を見回す。いつも思っていたことだが、今日もまた思った。この店はなぜかとても洗練された文化的なものを感じる。雰囲気がまさに気韻生動という感じで、よくわからないが考えさせられるような気がするのだ。
「ねえ、そういえばさっきの“ケイ君”って何なの?」
気になって当然の問いに、メニューを開き渚の方に向けてやりながら僕は答える。
「ケイってK。俺のイニシャル。木崎だから」
「ええ、K?どうしてイニシャルなんかで呼ぶの?」
「この店の名前が、“ビイ”なんだ。喫茶ビイ。B、マスターのイニシャルだ」
カウンターにいた男性が代金を置いて帰っていった。次の客がやってくるまで、思いがけない貸し切りだ。
「ふうん、そうなんだ。へえ……でも、Bがイニシャルって、ちょっと珍しい気がするよ」
「ああ、備藤さんだ」
そう言っていると、その備藤さんことマスターがこちらにやってきた。発展途上のアナクロニズム主義者を真理に導くような笑顔は相変わらずだ。
「ご注文はお決まりかな。ケイ君はいつもの?」
未知の未来との結盟を願っていた高校生の頃を思い出しながら、僕は頷く。
「よし、“本日のコーヒー”。で、お嬢さんは?」
「お、お嬢さんだって……」
渚は目を丸くし、そうつぶやいた。マスターはつたないローゼンタール効果をいさめるように笑う。
「そんなにおかしかったかな」
「いえ……そんな言われ方をしたことがなかったので」
「僕の妹ですよ、マスター」
僕は突然そう言ってみたが、僕の予想通りマスターは驚きもしなければとまどいもしなかった。そしてこう言う。
「かわいらしい妹さんだね、ケイ君」
「えっ。あたしが妹だって言って、ん?って思わないんですか?」
「そりゃあケイ君が言うんだから、おかしいとは思わないよ。それに、ケイ君は付き合うなら年上がいいと言っていたしね?」
「よく覚えていらっしゃる」
僕は苦笑した。そんな些細なお喋りの内容まで覚えているとは思わなかったのだ。
「でも、恋人同士だと思ってみれば、それはそれでお似合いだと思うけどね」
「まさか」
「まさかかい?」
「ええ。まさかです」
真剣に答えている僕がおかしかったのか、渚が少し笑った。
「マスター、冗談がお上手ですね。……あたしも、お兄ちゃんのと同じにします」
「承知致しました」
微笑み目礼して去っていくマスターの後ろ姿を見ながら、渚が訊いてくる。
「お兄ちゃん、マスターに自分の女の子のタイプまで話してたの?」
「うん。クラス委員の役の話もしたし、百メートルのタイムの話もした」
もちろん、兄の話も――
「ふーん。でも、年上か……どのくらいの歳?隣の女の人くらい?」
「鎗山か?あれよりは少し下くらい……でもまあどっちにしろ、子供がいるような女は無理だ。そこまでの責任をまかない切れる能力がない」
「そんなにまじめに答えなくてもいいんだよ」
構図を取ったかのように笑われ、僕は顔をしかめてみせる。
「でも、お兄ちゃんが高校生かー、なんか想像出来ないよね。もしクラスにお兄ちゃんみたいな人がいたらどうしようって思うもん」
「そんなこと言ったって、みんな子供を経て大人になるんだから」
「わかってるよ。でも、なんかあたし、今しかわかんないんだよね。たとえば、年取っておばあさんになった自分なんか、信じらんないもん」
確かにそうだ。渚がおばあさん……聖母マリアに拷問されても想像出来ない。
「まあ、渚は高校生じゃないと変な気はする」
「でしょ?だから、お兄ちゃんも今じゃないと変だと思うの。高校生の頃とか、中学生の頃とか……え?お兄ちゃん?どうしたの」
「い、いや、なんでもない」
中学生の頃――それはつまり、彼女と出会って、別れた頃だ。その頃はまだこの店のことは知らなかった。もし知っていたら、僕達は一緒にこの店でコーヒーを飲んでいただろうか?幸福の因果応報により少し笑い合いながら、二人して同じの香りの中に包まれていただろうか?ふとそんなジグソーパズルの輪郭のように曖昧な考えを起こした。
そんな風にして少し心をかき乱されていると、ウェイトレスがこちらへやってきた。周囲への経年のメソッドを身につけたしぐさで、軽く会釈しテーブルにコーヒーカップを二つ並べる。それから清く正しいアンソロジーに従うように一礼し、何も言わないまままた去っていく。彼女の思い出を熱いコーヒーでやわらげたくて早速カップを手にした僕の方に、渚が身体を傾けてきた。
「ね、今の人、綺麗だね」
「え?いや、よく見てない」
行ってしまったウェイトレスの方を見るが、もちろん見えるのは後ろ姿だ。綺麗だなどと言われれば気になるに決まっている。
「お兄ちゃんより年上だよ」
「そうか」
「好きになっちゃう?」
おもしろがっているような渚の口調に僕は顔をしかめる。
「いいから黙って飲め」
「はあい。……わあ、すごく美味しいね」
マスターがこちらにやってきた。今のところは他に誰も客はいないので、しばらくは話が出来そうだ。
「どうだい、久し振りのうちのコーヒーは」
「やっぱりここのは世界一ですよ」
僕が素直な感想を口にすると、マスターは震度五強のパルスによって消閑の一瞬さえなくなったかのように笑い出した。
「あれ、そんなことを言っていいのかな」
「本当ですよ。僕がこれまで飲んだ中で一番です」
「ありがとう。お嬢さんは、どうだったかな?」
またお嬢さんと言っている。だが渚が反応しないので僕も黙っておく。
「はい、とっても。あの、また来てもいいですか?」
「もちろんだよ。じゃあその時は、お兄さんとじゃなく別の人とおいでね」
マスターはそう言い微笑む。渚も幻燈的に晄々と光る笑顔を見せた。
「わかりました。でもあたし、約束は出来ないな……自信がないんです」
「お嬢さんならきっとすぐにでもいい出会いがあるよ。……それにしてもケイ君、随分変わったね」
「え?そうですかね」
そんなことを言われるとは夢さら思わなかったので、僕は驚く。
「うん。変わったよ。コーヒーみたいなたとえになるけど、深みが増したって感じかな」
「そうですか……」
深みが増した、か。僕の深さは今どのくらいなんだろう?
「変わるっていうのは素晴らしいことなんだよ。よかれ悪かれ色々あるけど、少なくともまったく変わらないよりはいいことだ」
「はい」
「うん。これから二十歳にかけて、また色々なことがあるだろうけどね。ケイ君ならなんでもうまくやり抜けると思うよ。ただ成人するだけが大人じゃない。大人というのがどういうものか、ちゃんと理解することが大人だよ。別に説教する訳じゃないけど」
マスターは腕を組み、もう一度逆に組み直した。別な人間がこういうしぐさをしたら、恣意的なシュペリオリティ・コンプレックスの塊だ、と思い気分悪く感じたことだろう。しかしマスターからはちっともそういったことは浮かばない。僕は陰湿な利害関係を薄める制服を着せられたように頷く。
「そうだよ。不幸せが幸せを生むということはそうそうないけどね、でも悪いことばかりじゃないんだよ。つらい出来事がある時に、人は高くそして深くなれる。君はそのことを身をもって知ってるだろう?」
「たぶんそうです。断言出来ないのが情けないところですが」
「また、謙遜してるんだね」
完璧な予型論を裏返して見せるようにマスターは笑った。僕は首を振る。
「いえ、本当のことです。僕は不幸せを踏んでいって、先にある幸せに向かっていこうという志気がなかなかなくて。どちらかと言うと、不幸せの上で止まってそれ以上進めなくなるんです」
「それにしてはよく頑張っているね」
マスターは密度の融和が折り込まれたボタニカル・アートさながらの表情で微笑んでくれた。
マスターは僕が今の家を借りる為の保証人になってくれた。もし家賃やらが払えないなら一時的に払ってあげる、とも言ってくれた。ただの客の僕にどうしてそこまでしてくれるのか……僕はとても面食らった。
「伝わってくれ、とは思わないけどね。でも、伝わればいいなあとは思うよ。僕は君にとても好感を持っている。だから君の出来る限りの役に立ちたいと思う。だけど無闇やたらとやってはただのおせっかいだからね、確実に親切にとどまれることをしたいんだ。どうだろう?保証人になるのは親切じゃないかな?」
「……親切です。ありがとうございます」
「じゃあよかった。僕の思惑通りだ」
僕は真底マスターに感謝し、その素敵な親切をありがたく享受することにした。マスターの親切に甘えることはとても幸せなことだった。
僕は今十九歳だ。十八歳でもなければ二十歳でもない。その僕というものは一体何なのか。何を背負い、何の目的で、どこへ向かっているのか。僕が意味するものは?今僕にあるものといえば、世界に対する数え切れない不満くらいのものだ。純情な願いなど何一つない。彼女と共にいた時は、確かにただ一つだけどうしても心の中にある願いがあった――明日という未来が必ず来るという保証を与えて欲しいということ。僕は彼女との毎日をいつだって切望していた。意識せずとも常にその願いを心に持ち続けていた。しかもそれは電子キャラメルさえ犠牲にすれば手に入る簡単な望みだった。あんな風に無残に断ち切られるまでは。
もっと幼かった頃、たとえば青山と道の離れた小学六年生だった頃、僕は成人するなんてずっとずっと先のことだと思っていた。しかし八年などあっという間だ。僕の十代はもうすぐ終わる――大人になるということ。僕がどのような大人になるのかということ。これから迎える一つのイニシエイションは、僕に一体何を与えるのだろう。そして、僕の一体何を奪うのだろう。
***
しばらく穏やかな香りに囲まれてゆったりとしていたのだが、さすがにいつまでもいるという訳にもいかず、僕達は席を立った。
「どうもごちそうさまでした」
「いや、来てくれてありがとう、こちらこそ。とても嬉しかったよ」
マスターはそう言いながら頭を下げる。
「そんなに言ってもらえるならもっと来ます」
「ぜひそうして欲しいね。……君は高校生の頃から大人びていたけど、それがさらに増したよね」
「それは、誉め言葉でしょうか」
そう訊いてみる。黙殺出来ない悲壮感にどういう感受を示せばいいのかわからなかった。
「もちろん。さっきも言ったけど、深みが増してる」
「よかったね、お兄ちゃん」
マスターがリダンダンシーを感じさせない彫像を眺めるように微笑し、渚が煙にまかれた中で明敏なひらめきを生んだかのように朗笑し、僕は並みはずれて意味深な約束に触れ苦笑する。
「お代はいいよ、二人共」
「そんな……ちゃんと払いますよ、二人分」
「今日はごちそうさせて欲しい」
僕はそれ以上言わないことにして、頭を下げた。
「ありがとうございます」
渚も同じく礼を言う。マスターはもう一度微笑んだ。唐突なきっかけが広大に燃える砂漠みたいに優しくにじむ。
「じゃあまた、ケイ君」
「はい。また」
内心をそのまま言葉に変えてマスターに会釈し、渚と一緒に扉に向かう。
「どうもありがとうございました」
最後に聞こえたのは例のウェイトレスの声だった。僕は少し振り返ってその顔を見る。驚くほど短いポジティヴ・リストを突きつけてくるような眼と、わずかな微笑みをたたえた口元。思わせぶりな冷たさの効いたメロウ。確かに綺麗だ、と思う。……好きになっちゃう、だって?まさか。
図った愛に生きるのは難しくない。でも僕はそんな易しい優しさにはずっと浸っていたくない。苦しむことが好きだという気はさらさらないが、この現代の社会で生きるからには、苦しんでこそ、ということが少なからずある。特に他人との関わり合い……つまり、それこそが現代を生きることそのものだが、そのことにおいては、苦しみなく得られるものなど何もない。たとえば僕と彼女のことにしても……僕は彼女と時を共有するにあたり、システマティックに線を引かれ、喉の奥が燃えてしまいそうな思いを嫌というほどした。彼女を愛し続けていた、さらに愛し続けることだけを望んでいた。それが順調に叶わずとも、正しい術を教えてくれるメンターなどいなかった。間違った虚飾に踊らされ続け、いつだってどこか遠い国にいるような孤独を味わった。愛に義務などあってはならない。あるべきなのは権利だけだ。それなのに僕も彼女もそのうるわしき幸せを享受出来なかった。それは僕達の関係があまりにも快いものであったからだろう。
「一度でいいから何もかも忘れて愛するってことをしてみたいな」と渚は言う。「自分なんてどうでもいいくらいに誰かを愛することだよ」と鎗山は言う。「大切な愛があればそれだけで生きていけるもの」とあゆ子は言う。「自分への愛を伴わない愛なんてどこにもないわ」とあの女は言う。それぞれが認める愛の形。それぞれの人の中だけで通じる小さなルール。僕のルールと彼女のルールだって違っていたはずだ。それがあの時は同じに見えていた……それがそもそもの間違いだったのだろう。今となっては伝えられない言葉、それを僕はどうにかして彼女の元へ届けたいと願う。悠遠に激しく燃え続ける思いだけが時空を超えていき、僕はそこでただの歴史のスレイヴになる。永劫に縛りつけられた隷属であることから逃れられない。長い長い歴史の一部分としての役割をまっとうせよ、と言われるがまま。無理矢理に鎖を引きちぎれば、逃れることは可能なのかもしれない。ある程度傷付くことと引き換えにしたとしても、それだけの価値はあるかもしれない。だが僕にはそういうことは出来ない気がする。そんな矛盾撞着の澎湃を勝ち抜けるには、僕は弱過ぎる。
店を出て、例のしゃれた扉を閉める。渚はもう一度名残惜しそうに店の中を覗き、小さく息をついた。
「喫茶店、いいね」
「ん?」
「あたし、喫茶店をやってみたいかも。備藤さんみたいになりたい」
「おまえなら出来るよ」
あれ、と思った。口から出た言葉は単なるなぐさめではなかったのだ。僕は本気でそう言っていた。
「で、足、大丈夫か?」
「うん。でも、あたし、ゆっくり帰る。痛いから」
「俺も一緒にゆっくり帰ってやるよ」
渚はヘリコプターが自分の影を無線操縦するように首を左右に振る。
「ううん。いい。気にしないで大丈夫。途中に薬局があったから、絆創膏を買って帰る」
「わかった。気を付けろよ」
そう言って僕は歩き出す。思考のない通りに過ぎる風が妙に心地よく感じた。
「お兄ちゃん!」
すぐに呼ばれ、僕は驚きつつ振り返る。
「美味しいコーヒー、連れてきてくれてありがとう」
強烈な社会主義者の権威も一気に失墜させる笑顔を見せ、渚は大きく手を振った。僕も軽く手を振り返す。渚は幸せになるべき部類の人間だ、と思った。それなのに渚はそういうものからほど遠い。いつも明るくふるまっているが、ことごとく非道徳的なインタラクションからまったく救われていないのが本当のところ……それは夢の中でも同じらしく、よく夜中に眠ったままうめいている。誅滅出来ない建前に翻弄させられる夢でも見ているのだろう。幸せになる前に渚の人生が擱筆されてしまったらと思うと、僕は挙措を失わざるをえない。
***
罪過さえ超えた絶頂の購買欲で成り立っている街を歩く。僕の視界に入るすべてがシミュラークルで、無呼吸な機械に支配された日常が繰り返されている気がした。交ざり合う善と悪――誰もがその中で美徳をよそおった己を発揮し、一方と他方の関係にいわば経験的な見切りをつけている。昨日の善が今日は悪になる。時には一秒前の悪が今善になるということだってある。それがこの半人工の世界の中の法則だ。だが僕は、その法則に当てはめることがなかなか難しい。よい行いをしようとか、悪い行いはしないでおこうとか、そういったことは一切思ったことがない――善悪を切り離して考えられないのだ。僕の中では、物事はすべて善であり悪だ。もしくは、善でもなければ悪でもない。その境界は酷く曖昧で、それでいてとてつもなく強烈だ。それは必ず同時に存在する。僕の中にひそむ消極的な正義感、それを誰かと分け合うことが出来ない。置き去りの殺意、凍らせた愛情、未完成の後悔、止まらない悲愴、瞬間的な楽観……感情それぞれが僕の中でみじめなカレットとして散らばっている。僕がいくら懸命に拾い集めようとしても、それは指のすきまから落ちてしまうかのようだ。どうしようもないことだがどうにかしなければならない。頭の中で絶えず硬派なクラクションが鳴り続け、その立体的な音が僕を壊していく。僕は道徳的なことには無頓着なくせに、自分で傷付いてばかりだ。誰だって傷付くことは簡単だけれど、僕の場合は特に得意な気がする。僕は何か、どういう意味を持つものか、そればかり考えてぐるぐるぐるぐる廻っている。それは果てしなく悲しみにつながっていて、その錯落とした孤独な道をそれることが出来ない。誰かを幸せにしたり自分を幸せにしたりすることなんて一生出来ないんじゃないかとさえ思う。もしも僕がナレッジ・エンジニアなら、一体どんな風に未来に希望を持てばいいんだ?
「すみません」
僕にぶつかった人が早口にそう言った。風はその言葉だけを僕の耳元に置いて過ぎ去っていく。残念だが、僕は肩に少し当たったくらいで腹を立てたりはしない。ただ振り返ってその人の後ろ姿を見た。なんだか僕の知っている誰かに似ている、そう思った。
道端に咲いている小さい花がふと目についた。なかなか可憐な花だ。渚が見たら、かわいいだとか綺麗だとか言うだろうか?そう考えてみて、また彼女のことを思い出した。彼女は一体何が好きだったのだろう?何にあの心を奪われたのだろう――よく考えてみると、僕は彼女の詳細を何も知らなかったような気がする。僕はどうしようもなくメランコリックな至理に凍らされそうになる。蒼い心臓の鼓動が速くなる。もう彼女はここにはいない。それでも僕は彼女が好きだ……
***
あゆ子から電話がかかってきたのは、ちょうど我がワンルームマンションが見えてきたくらいのところだった。こうやって見てみるととても汚れて見える。別に気にしたこともなかったけれど、よく考えてみると残念なことだ。
「もしもし、木崎君?大丈夫?」
「大丈夫って?」
訊き返すと、咳払いをする声が聞こえてきた。
「今、時間大丈夫かしら」
「ああ、大丈夫だよ」
「ちょっと話があるんだけど」
「いいよ」
そう答えてから、しばらく時間が空いた。
「あのね」
そう言いかけ、あゆ子はまた少し黙った。よく喋るあゆ子らしくない。だがそのくらいの方が幾分か知的な会話が出来るかもしれない。そんなことを思いながら僕は相変わらず同じ歩幅で歩いている。今日は天気がいい。
「あのね……やっぱり私、どうしてもあなたのこと好きみたい」
やっぱり私、どうしてもあなたのこと好きみたい。……随分とわかりにくい言い草だ。知的な会話なんてどこへやらだ。狂気と夢の味しか感じられない。僕は携帯電話を持っていない右手を開いて閉じた。ここにグラスがあればいいのに。
「……それで?」
「無理かしら」
「何が?」
僕の右足の靴の先が小石を蹴飛ばし、前を行く男性の足首あたりに当たった。累月のコロケイションについてまっすぐに思案しているような無表情で振り返ったその人に、僕は頭を下げる。すみませんでした、悪気はないんです、という思いを込めながら。
「私と付き合って欲しいの」
男性が進行方向に向き直ったと同時に、耳元でそう聞こえた。僕は咳払いをする。
「それはどういう風に?」
「真剣に」
「[真剣に]」
「そう」
今度は左足の方が小石を蹴飛ばした。しかし今度は誰にも当たらない。別に当たればいいと思った訳ではないが。
「無理だな」
「どうして?」
「僕とあゆ子じゃ、願う展望が違い過ぎる」
あゆ子は再び黙り込んだらしい。すると待っていたとばかりに、静寂の中にうごめくあれやこれやが襲いかかってくる。それは気持ちのいいたぐいのものではなく、だから僕は過剰防衛的な攻撃を投げかけた。
「電話でこんなことを言うのが真剣なのか?」
「木崎君がそんなこと気にするとは思わなかった」
「別に僕は気にしてない。ただ、あゆ子が真剣にって言うから」
僕はあくまでも真剣にそう答える。
「……私、ばかみたい。こんなに好きなのよ。木崎君のこと」
「伝わってはいるんだ」
正直にそう告げる。そう、あゆ子の気持ちは伝わっている。もちろんそれが嫌な訳でもない。だがそこまでだ。それ以上は何も動かない。
「付き合えないことに理由があるの?」
「別に何も、理由なんてないよ」
「じゃあ、どうして――」
あゆ子の声音がヒステリックな響きを持って僕に迫ってきた。それは不思議なことにあられもない嬌声に似ていたが、僕はもう勘弁して欲しかった。
「どうしてって言われても困るんだよ。じゃあ逆に訊くけど、俺はどうしたらいい」
「そんなこと言われても。私、あなたを愛してるの。だからあなたにも愛されたい。それだけよ」
「……あゆ子のせいにはしたくないけど、実際のところ、あゆ子のせいで俺は最低なやつだと思い知ったんだ」
僕はずっと思っていた嫌なことを言葉にすることを選ぶ。
「覚えてるだろ、『愛してるふりでいいから』って俺に言ったこと。あの言葉には引っかかってたけど、結局それから、俺はあゆ子に『愛してる』なんて言った。俺は嘘つきだ。嘘どころか、大嘘もいいところだ」
「大嘘だなんて……そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「本当のことなんだ。俺は嘘つきになりたい訳じゃない。ふりで愛して何になる?あれは俺の過ちだった。間違いなく間違ってた。だって俺は――」
「もういい。それ以上言わないで。あなたとのこと、全部忘れるわ」
涙の交じったあゆ子の声を聞きながら、僕は『キング・リア』を思い出していた。あゆ子の中ではこの一連の出来事は壮大な悲劇として認識されているんだろうな、と思った。あの破廉恥な興廃に甘んじた国王も顔負けのとてつもない悲劇だ。
「わかった」
タガがはずれたように泣き出すあゆ子の声が聞こえてきた。僕は思わず終話ボタンを強く押していた。
僕は誰か相手と意味合いの異なった約束をするというのがとても嫌いだ。いわば幻想の安全感というか、そういうもので満足するのが嫌なのだ。それは決して移入しない感情を用いるのだからかなり難しいことだ。かと言って嫌なものは嫌なので仕方がない。残念ながら僕の悪く鋭い忠誠は金では買えないのだ。だが今回は、僕が反省する必要もないではないと思った。何より僕の唯一の友人の青山がやっていられない目に遭うということ。僕はこのたび久し振りに会えたことが嬉しかったし、青山は間違いなく幸せであって欲しいと願う相手だと気付いたからだ。観察の対象のごとき公然の失敗はもはや笑う必要さえない。それなのに僕は……いや、だがそんなことはもうどうしようもない。僕はそれでなくても過去に引きずられやすい人間だ。こんな些細なことにいちいち構ってはいられないのだ。
***
家に帰ってしばらくした頃、また突然携帯電話が鳴った。と言っても電話がかかってくるというのは受け手からすればいつも突然なのだが。なんと驚いたことにディスプレイの表示は“Kokona Souyama”だった。鎗山此奈――間違いなく我が隣人のフルネームだ。
「はい」
「やっほう、木崎君」
「どうして電話なんか」
「だって電話番号、前に聞いたじゃない」
当たり前のように鎗山はそう答える。
「そういうことじゃない。電話なんかする必要がどこにある?僕は今家にいるんだ」
「私も家にいるよ。ただ、木崎君の声が聞きたくなったの」
「やめろよ、若者をからかうのは」
鎗山はアルファからオメガまでの経路を正確に辿るみたいに笑い声を上げる。
「それって年寄りが言う台詞でしょ。“年寄りをからかうな!”って。でも、本当よ。本当に聞きたくなったんだ」
「気持ち悪い」
「そうですか。つまんないの。あ、ところで明日、やっぱり食事キャンセルね」
そう言われ、一瞬なんのことだろうと思った。
「悪いね、私から誘っといて。ちょっと色々あってね」
「そうか」
約束を忘れ去っていたことが少々情けない。
「ねえ、色々って何なんだって訊かないの?」
「いや、別に興味がないから」
「ふうん、クールだねえ。でも、冷た過ぎると魅力にならないよ。クールと冷淡は全然違うんだから」
なんだそれは、と思うが、鎗山が僕になんでもかんでも言うのはいつものことだ。だから僕もいつものように返事をする。
「別に、魅力とか気にしてない」
「そうですか、はいはい。わかったよ。あ、そういえば頼ね、イギリスがどうのこうのって、今日もまだ言ってるんだけど」
「……そうですか、はいはい」
「そんなことを真似しないでよ」
僕は暗示的なヴィスタコーチの連鎖に加担するように少しだけ笑う。
「あんたの息子が何を言おうと知らない」
「もう、どいつもこいつも私に隠しごとばっかりして。おもしろくないんだから」
「それは悪かったな」
「悪いわよ」
鎗山はそう言うと電話を切った。
先程の二件の電話は僕にとって何ももたらすものではなかった。僕からすればまったくもって重要度のないものが、あらゆる性格的意味を超えて僕に迫ってきたような感じだった。しかしきっとそんなことはないんだと思う。つまりどんなに些細なことであれ、たとえ記憶さえされないことであれ、なんらかの痛烈なものが僕に与えられているのだ。実はそのまぶしいサインに僕が気付かないだけで。そんな乱暴なコンスティチューションの中で僕は生きているのだ。受ける影響はどんなに強いことだろう。僕はそれでなくとも幻覚的な夢を見る傾向の強い人間だ。僕はいつだって生きていることに影響されながら生きているのだ。現在進行形の構築主義に従って。
僕を形取っている何もかもを一瞬だけ取り払ったとしたら、一体どの程度の芯が残るだろう?ちょっとした力でぽきんと折れてしまうような芯なのだろうか。そんなことを考えると気が重くなる。……それ自体が僕の芯を表しているようなものだ。僕はいつだってど真ん中のグレイ、黒や白にはなれやしない。僕はそれを誇れることだとは思わないが、別に恥ずべきことだとも思わない。正しくないものこそが正しい、ということが時にはある。きっと誰にも説明出来ないであろう永久歪みだ。僕の中ではいつも許されない革命が起こり、表現しがたい悲哀の予感が混沌と揺れている。生きているという感覚の時刻を数えるたびにそそる悲しさというもの――千度と繰り返される追想はすべて漠然としていて、意味もなくむさぼるだけで美妙さを感じ取ることは出来ない。片時も忘れられない最も致命的な掟、無意識のトーラスの中を循環し続ける無情の自信。確固たる地位を築こうともくろむ自分自身の右翼と左翼。永遠性の零落していくさまを見せつけられたように、存疑の感情がとめどない流れになる。名前すらも知らないものが入り乱れた交差点で、目の前に迫った標識が何を指示しているのかわからず、スリップしてしまうほど凍った絶望が濡れて深まっていく。今という瞬間を裏切って生きているようなこの日々に、最後に残るものは一体何だ?実のところは、振り向きざまに視界に入り、また前を向けばすぐ忘れてしまうようなものなんじゃないか?怖くて恐ろしくて、意味が探せない。だから僕はここにいる。
『人間失格』を読み終えたので、僕はまた『告白録』を読んでいる。もう何度読んだだろう?初めから回数を数えていればよかったが、もう今さら遅い。確かなのは、物語の進む道のりを僕がほとんど記憶しているということだ。次に彼の身に何が起こるのか、どんな幸運がやってきてどんな不幸が降りかかるのか、もうすっかりわかっている。それでも飽きないのだから仕方がない。上、中、下、上、中、下……と順に読んでいくと、とても不思議な感じがする。生まれたばかりのところからジャン・ジャークの成長を追っていると、どんどん大きくなって少年になり、そして大人になったかと思えば、いつの間にか中年になってしまう。そしてまた新しく生まれてしまうのだ。それにしても、自分で自分の人生を書くってどんな感じなんだろう、と思った。少なくとも僕の場合はこんなにさまざまな出来事を詳記することは出来ない。僕は世界的に高名な知識者ではないし、それどころかただの十九歳でしかない。もしも今ジャン・ジャークがいて、あいまみえることが出来るとしたら、彼は僕にどう言うだろう?自己に信頼出来る人間になること――果たして僕は自己に信頼出来る人間になれているだろうか?
僕は収束的でかつ拡散的な思考の最も主要な課題である自分についての省察をしながら、これ以上ないくらいに覚醒しつつ、まるで深い深い眠りの奥にいるかのようだった。僕という存在が一体何であるかを知ること――そう、渚だって言っていた。「自分が何なのか」と。僕は何なのか。その自問はいつまで経っても時効を迎えない。まるで希望のない憬れを抱く非道徳主義者のように、自らが招いたエクスペクテイション・ギャップに苦しめられ続けるだけだ。それでも僕は考える。僕は何なのか、そしてどうして生きているのか、生きることとは何か。考える。考える。考える。
***
また出勤となり、渚とは入れ違いだ。僕が帰る頃には今度は寝ている時間になるだろう。渚とは出来る限り話をしたいが、でも僕は渚の寝顔を見ることが好きである。簡単に言えば僕は起きている渚も寝ている渚も好きということになるのだが、よく考えてみれば変な話だ。どうして僕は渚に対してこんなに好感を持っているのだろう?何につけてもけちをつけたくなるこの僕なのに。
職場に到着したと思ったら、入り口のところでたくさんの書類を抱えた上総と出くわした。
「お疲れ様です、上総さん」
「ああ、お疲れ様です」
「何を持ってるんですか?」
「ああ……ちょっとした私物です」
そう言いながらそれらを僕に見せてくれる。
「英語の資格試験の資料なんですよ。ちょっと、近々受けようと思ってて」
「へえ、そうなんですか。忙しいのに、どうやって勉強を?」
「対策テキストを見て丸暗記って感じですね。とにかくすべてを頭にたたき込むっていうような。だけど対策テキストがまた、種目別で何種類もあるんですよ。とても追いつかなくて……」
上総はまいったというような顔をしてみせる。僕は思わず、脱帽だ、と思った。
「学生ならまだしも、仕事しながらやらなきゃいけないとなると、そりゃあ大変ですよ。僕には出来ません」
「僕、世界一周旅行に行くのが夢で。その時の為に語学を身につけたいんです」
「そうなんですか。……頑張って下さい。夢、叶うといいですね」
僕がそう言うと、上総はまっすぐに人工的な運命を完成させるような笑顔に変わった。
「ありがとうございます。木崎君の夢も叶いますように」
「そうですね」
僕の夢か――今現在何一つ思いつかない。このままではまずい気がした。これからでも新たに夢を抱きたい。
「じゃあ、お疲れ様でした」
上総が去っていく。既存事実の生きたつながりを持った深い目覚めと共に。
未成年⑨ エピローグに続く