未成年①

あらすじ


僕には兄がいるらしい――
主人公「僕」はある日、ひょんなことから会社の上司の飼っている鳥を預かることになる。
その期間の一週間で「僕」の心は会ったことのない兄を求めて揺れ動く。
そして最後には……?
「僕」と周囲のさまざまな人達がお届けする、ありふれていて、しかし他にはどこにもない七日間の物語。


プロローグ



 僕には兄がいるらしい。一度も会ったことがなく、写真の中でさえ見たことがない。兄にまつわるものは何一つ触れる機会すらなかったし、もしもこれが天の配剤だというなら、僕はこの世界のすべてを信じることが出来ないだろう。洗われた表面張力に寄り添う水銀の香りと変わらない。同じ父と母から同じ遺伝子を受け継いだ者が自分のまったく知らない存在であるというのは、酷く不気味であり、何か神話的な陰謀のようにさえ感じる。僕は兄についての一切のメモワールを持っておらず、どうしたらいいのかという地図さえも見つからない。そう、まったく知らない存在というのは決してメタフォリカルな意味ではない。本当に何も知らないのだ。名前も年齢も。それでも僕は両親にそのことを尋ねなかったし、両親も僕に何一つ語らなかった。それどころか必死なほど僕の目をそらさせようとしていたと思う。僕に兄のことを一ミリでも考えさせないようにと。結果的にはそれは実に見事な逆効果となる訳だが、それでも幼い頃はどうということもなかった。特に毎日を過ごしていく上で問題となる弊害というものは見当たらなかった。だが僕は気が付くと徐々に子供を脱皮し、不可視の因果律と共に揺れ動きながら少しずつ大人になっていった。色々なことを知り、学び、得て、失った。そして半分大人になった頃には、もうどうしようもなく世界に対する不満が大きくなっていた。運命愛なんてとんでもない。この僕の生きている道を運命と呼ぶなら、僕はそれを憎むことしか出来ない。もちろん、僕に秘匿されている兄の存在が何よりの元凶だった。今僕は十九歳、もう世界に不満しか感じない。

 ***

 時折僕は無意味な法悦感を禁じえなくなるが、今もそんな感じだった。といっても、つい今まではそんな感じはなかった。まさに今突然に切り替わったのだ、僕を取り囲む空気が。僕はそれを明瞭に感じ取れている。それはまさしく記念碑を建てるべきたぐいの現実感を伴った出来心だ。たぶん意味深な権謀術数が近付いていても、僕はそれには気付かない。それは確実だと思う。だって僕は未来を知らないくらいに何も知らないから。
 陽が落ちてからもう何時間か経った。僕は少しよごれたガラスを通し外を見ている。有名でも無名でもない匿名的な夜が広がっている。閉め切っていても想像出来るどこまでも怠惰なサウンド・スケープに、ますます疲れさせられているような気がする。真夜更けに向かう過程は酷くさびしく、誰もが必死に心に隠そうとするものを肉眼では見えない月光でさらけ出させる。
「おい、木崎きざき
 せっかくぼんやりしていたのに、僕を呼ぶ声がした。名ばかりの上司である荻河おぎかわだ。一日のきつい仕事を終えやっと帰ろうとしていたところなのに……どうして今、しかもこんなやつに呼びつけられなければいけないんだ。そう思いながら僕は怒りを込めてロッカーの扉を閉める。そしてコンクリート・クライシスの履歴のごとく途切れのない流弊に沈み、皮肉なほどさわやかな表情を作ってから荻河の方へ向かった。
「はい、なんですか、荻河さん」
「いやあ、ちょっとな。あの、おまえ、一人暮らしか?」
 頷きながら、いきなり何の話だ、と僕は訝った。僕は荻河を快く思っていない。いや、快く思っていないなんて随分かわいらしい表現だ。率直に言えば、実然命題のリリーサーとして蔑んでさえいる。いつもいやらしい笑みを浮かべてくだらない話をしている、取るに足らない生活のアディクトでしかない。自分の失態を他人に押しつけ、他人の称賛を自分のものにすることに酸素を費やしている男だ。そのばかばかしき行為が実を成しているのかはさだかではないが、とにかくこういうやつとは関わり合いにならないに限る。そんな荻河が突然僕に何の用だ?僕は思い切り警戒して荻河を見返した。
「いや、急な話なんだが、鳥を預かってもらいたいんだよ。ちょっと出かけるんでね」
 僕は驚いた。何がって、荻河が鳥を飼っているということに。荻河に飼われている鳥なんて、予期せぬ軽薄なソラリゼイションと同じくらい不憫だ。代わってやりたいどころか、何があろうと代わりたくない。
「どうかな、木崎」
 驚いて閉口している僕に荻河はたたみかける。
「……何日ですか」
 あまりに想像出来ない荻河の私生活はさて置いておき、ひとまずその問題について訊いてみた。荻河は実に醜く肩をすくめる。
「ああ、七日間、休む。ちょっと色々あって。有給休暇だから。それでその間、鳥を預かって欲しくてね。特に世話が大変だとかいうことはない。大体同じ時間くらいに餌をやってもらいたいんだがね」
 荻河はそう流暢に喋った。有給休暇で一週間も休む……信じられない。そんなに休むと他の者にかなりの迷惑がかかるに決まっている。それなのに荻河は帰納法によって新進のスタックを作ったかのごとく堂々とした様子。非常識にもほどがある。
「で、どうだ?」
 返答を催促されさらに気分を害したが、僕はその鳥に傷付いた同情を感じた為か、気付くと頷いていた。代わってはやりたくないが、一時的に保護してやることは出来る。そんな気がしていた。
「よかった、よかった。今から一回家に行って、鳥連れて、そのままおまえを送っていくよ」
「いえ、ここまで連れてきていただければ」
「でも、悪いから送るよ」
「構いません。大丈夫です」
 自分でもオーヴァーだと思うほど手を目の前で大きく振りながら言うと、ようやく荻河は頷いた。
「そうか、じゃあ……悪いな。すぐ取ってくるから」
 都合のいいものだ、と僕は思う。自分の望みの為なら、こんなにも下手したてに出る親しげな人間になれるらしい。いつも周りの欠点を探すのに躍起になっているくせに。どうせ人間なんてみんなそんなものだ、自らの利害のことしか頭にない。そうはわかっていたがやはり腹が立った。荻河なんかありきたりのフェイブルに登場する愚民以下だ。あいつがのんきにどこかに行っている間に鳥を殺してやろうかと思ったが、やめた。鳥に罪はないし、そもそも鳥は人間ではない。

 僕は自分の名前からか、鳥が好きだ。自虐でもなんでもなく。空を飛びたいという思い、つまり飛行機などに乗るのではなく自分自身が、ということ。羽で自由に空を飛べたらという人類の永遠の願い、それを僕も抱いている。イカロスが空へ向かった気持ちが僕にもわかる。もちろん僕はその残酷な結末を知っているから同じ翼が欲しいとは思わない。空を飛ぶ為にこの命を引き換えにするつもりなどさらさらない。僕の人生の目的は空を飛ぶことではないのだから当然だ。でも……もしもいつか僕の背中が割れて羽が生えてきたらどんなに素晴らしいだろう。もちろんそんなことは不可避的に閉鎖された幻想だが、もしかすれば僕が気付いていない未視感かもしれないのだ。変数結合のまばたきのようなトーン・クラスターがなんらかの逆説をささやいていて、僕がまったくそれを知らないだけなのかもしれない。それは自由で素敵な夢だと言って差しつかえないだろう。もしも飛べるとしたら……僕はどこへ行こう?

 ***

 僕が約二年前から住んでいるワンルームマンションの部屋は落ち着かなくなるくらい狭い。安定性の支柱によってまとめられた法則の思考過程もない。しかし誰が何と言おうと、この空間は僕の僕による僕の為のパレスだ。内心と建前のずれが一ミクロンもないし、準都市的な潤いに満ちた城であることには変わりない。それは僕の自立的な独立を祝福する象徴だ。だから僕はその極端な狭隘具合にまである意味での愛おしささえ感じる。その窮屈な開放感をすみからすみまで満喫し、名付けられないほどの安らぎをいつも得ている。なんてちっぽけでなんて意味のないなんて無力な十九の夜――それは確かに時々そう感じるけれど、それでも僕は誰にも縛られていないと思える、それだけで僕は生きている理由を知れたような気がしている。自分の居場所というものは絶対に必要なのだ。それがどんな姿容であったとしても。
閑々とした真っ暗な部屋に帰ると、やっと安住の休息が訪れる。成立するべくして成立した平和の中を手探りで電気のスイッチを入れ、鳥籠を床に下ろす。物言わぬ囹圄れいぎょの中の鳥は一声も上げることなく、随分とおとなしい。僕が暮らすこのワンルームマンションは室内で動物を飼うことを禁止していたような気がしたが、どうでもよかった。ある程度の規則が必要なのは当然のことだが、あまりにドミナントなのは好ましくない。
 悲しい偽りとみじめな過ちを閉じ込めたようなベッドの中から落ち着いた寝息が聞こえてきている。その規範的なサインは僕をほっとさせる。そうっと窓際へ行きカーテンを少し開けた。統失に固執したような月光と出会い、僕はその淡い光を心で受ける。ふと思いつき、鳥籠をベッドのわきに移動させた。この位置が一番しっくりくるような気がする、と思いつつ、なんということもなく少し眺めてみる。しかし鳴き声はないし、羽の色を見ても特に心は動かないし、絶対に何も教えてくれそうにない。カナリアじゃないから、と思ったあとですぐ、じゃあ何なんだろう、と思った。

 ポストの中に入っていたものをテーブルの上に広げ、今日はかなり多いなと思った。水道使用量を知らせる紙と、無料の情報誌と、お好み焼き屋のチラシと、手紙が二通。ほとんどいつもが何もなしなので、これだけでも相当な量に思える。ある時は蟻があり、ない時は梨もなしとはよく言ったものだ。手紙は片方が母親からで、もう片方は覚えのないものだった。僕は机に置いたまま母親からの葉書に目を通す。それ以外はすぐダストボックスの底に落とすのだ。そこにある絶妙の地獄というものを僕は知らない。
 僕は携帯電話を持っているがその番号を親に教えていないので、何かあるとこうやっていつも葉書が届く。母親によって書かれたマッスを欠いた癖のある字や詞華の必要性を否定するような文章には毎度うんざりさせられるが、電話で言葉を交わすよりはましだ。僕はごくひかえめに言って、親を憎んでいる。僕に本当のことを教えてくれないからだ。兄のことだけじゃない。あの二人の話すことは何もかもが嘘に思える。二人は何年か前から僕のことを少しずつ恐れるようになったが、それは僕が仕向けたことだ。僕は中学生の頃くらいから両親に対して黙す自己主張を続けていた。僕は親を憎んでいる、という明瞭な主張だ。些細なことを色々とやったが、中でも気に入っているものは、ナイフを何本も買ったレシートをわざと二人の目に触れるところに置いたことだ。ばからしい話だが当時はそんな他愛のないことで満足していた。両親は僕の前ではまったくそんなそぶりは見せなかったが、明らかに僕を見る目は変わっていた。ざまあみろと僕は思っていた。そして高等学校卒業と同時に家を出た。僕は高校三年間無我夢中でアルバイトをし、一人暮らしをする当座として心配ないだけの金を貯め続けていた。それはもちろんとんでもなく大変だったけれど、それよりも親から金をもらうなんてまっぴらだったからだ。恵んでもらうくらいならどんなにドラッギーな仕事だってやってやろうと思った。人生の路銀を稼ぐというのは確かにつらい。しかし贅沢な生活を望まなければ、そして高校時代アルバイトをしていたのと同じ気持ちで懸命にやっていけば、そんなことは決して難しくない。
 僕は四分の三年ほど前から今の仕事をしている。この仕事が好きだ!とまでは言えないにしろ、一応のところそれなりの責任を持って勤めている。例の荻河をはじめとして、理不尽なクレデンシャリズムに偏った上司もいるし、捨てられない友情の芽生えた同僚はいない。それは確かに致命的なことかもしれないが、それでも僕はそんなことでいちいち傷付いたりせず日々をこなしているつもりだ。今の僕としては十分に及第点な毎日だと思う。過大評価でも過小評価でもなく。社会人になるということは堕落した人間になるのとほぼ同義だけれど、それでも僕は何も文句はない。

 なるべく音を立てないように支度をしてから、冴えた同害報復の音楽を聴き続けるようにシャワーを浴びた。特に考えごとはしなかった。預かったばかりで少々不安な鳥のことさえ頭には浮かばなかった。六連勤目だったので当たり前かもしれないが、とにかく疲れていた。ほとんど夢遊病のように身体を洗い、一応はすっきりとした感じになる。閑却的に意味深長な石鹸の香りと更新される外人ぽさ、阻止されない濁流、すべては仕組まれている。
 そしてもう疲れていたのでさっさとベッドに入ろうと思ったが、なぜか足はそちらに向かなかった。いつもはシャワーを浴びたらすぐ直行するのがほとんどなんだけれど、僕が行ったのはベランダだった(ベランダというほどの大したものではないが、名称としてはそうとしか呼べないのだから仕方がない)。とにかく僕はベランダの冷たいコンクリートに立っていた。もちろん何もすることはない。ただ僕は一切の媒介に意味を付与しようとする預言者のように月を見つめた。帰り道、これを見上げて彼女のことを思っていた。すっかり日が落ちて夜にとどまった街を一人で歩いていると、いつも彼女を思い出す。特に欠けた月が出ている時には。月はやたら記憶をそそる。そして遠回しに僕を光り咲く展望台へといざなうのだ。また夜の空気は少しばかりの嘘と偽りが見え隠れするようで、それでも酷く優しい。満ちていない月はアポロニオスの円を描けず、解けることのない悲しみの象徴のようだ。そんな意味深で儚い瞬間が彼女にはとてもよく似合う。僕は腕を組み変えたり足を微妙に動かしたりしながら、どこを見ているのかもわからない月を見つめ続けた。オブセッションにしがみついているのか絡め取られているのかも不明な状態にまみれながら、彼女のことだけを思う。そして僕は気付いている。自分がある意味ではそんな状態に酔いしれているということに。きっとそれは、彼女との短かった時間が広く深く拡張されていくから、そしてもう取り戻せない愛しい意識に新しく触れることが出来るからだ。彼女が何か言う、そっと微笑む、僕の腕を優しく取る。僕は何か尋ねる、少しだけ笑う、彼女の唇にキスする――そんな孤独の記憶が何度も何度も繰り返される。それでも僕はこのままでいいとはもちろん思っていない。生きていくには変わり続けなければいけない。有為無常のならわしに従い、よかれ悪かれ流れていくことが必要なのだ。だからこんなにも狂おしい幻覚はもう見たくない、といつも思う。それなのにそれは無限と連なっている。夢の続きのふりをして彼女に口づけて、形の見えない何かにすがるように抱き寄せた、そんな記憶さえ出口が見つからず僕の中で迷っている。彼女のうつろな瞳、わずかにいた唇、無造作に散らばる髪、それらをすべて仔細なところまで覚えている。それらはどれも僕達の最後の時間――もう先のない途中だ。どこまでも続くとさえ思っていた僕を裏切った運命。名辞矛盾の固有の意味に足元をすくわれ、僕は無様につまずいた。まるでどうしようもなく強い悔いに苦しむ僕をあざ笑う非道な打ち明け話。それは僕の心の最前線にいつもひかえていて、すぐにでも飛び出そうと身構えている。誇るべきところのない僕の心中はいつもまるで乾燥したグリザイユのようだ。濃いところは後悔の結集で、薄いところは幸せの余韻。彩ることも塗り替えることも出来そうにない完成し切った愛。もう届かない愛だ。もう彼女には届かない愛だ

 それからまだしばらく僕は月を眺めていた。未だ血のにじむ僕の傷口を照らすかのような青白い月はとても綺麗で、このまま何も手に入れないままでむせび泣くことさえ出来る気がした。もっと僕の罪悪をさらして欲しい、強大な名誉欲に囚われたメディテイションのごとく限りなくあさましい罪悪を――あと一歩、いや半歩でも踏み外せば完膚なきまで気が狂えるだろう。しかし熱めのシャワーを浴びた身体も冷え始めたので、ようやく部屋に戻ることにした。だがいくら身体が冷えたって、彼女のことを思って熱くなった心はベッドに入り込んでからもずっと冷めなかった。――夜には誰かをほんの少し別人にする性質がある。その誰かが今夜は僕だったのだろう。普段の僕はこんな重要性の詰まった渓谷みたいに感傷的じゃない。


 未成年② 一日目(Sunday)に続く


未成年 目次


①プロローグ ※本稿

②一日目(Sunday)

③二日目(Monday)

④三日目(Tuesday)

⑤四日目(Wednesday)

⑥五日目(Thursday)

⑦六日目(Friday)

⑧七日目(Saturday)

⑨エピローグ


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