夏、退廃、執着、仏教。

酷い夏でした。暑さが、という話ではありません。いえ、暑さも酷かったのですが、私の心のありさまが、という話です。

このことを自覚したのは、ある人に、「何をそんなに退廃的な生活を送っているんだい」と言われた時です。8月の中頃だったような気がします。たしかに、7月ころからの生活を振り返ってみると、そうであるかもしれない。

私は、今年の4月から社会人になりました。土日祝が休みで平日に8時間労働という、ごくごく一般的な企業で働いています。思い返してみれば、7月ころから、仕事をさぼるようになりました。残業は無いし、人間関係にも別段困っているわけではないのですが、やる気が起きず、遅刻したり、早退したり、欠勤したり、が週に1回はありました。大学生の頃のように、平日にも夜を明かして酒を浴びるようになり、素性も知らぬ女性といやに大きいベッドで朝を迎えたり、が増えました。煙草の本数も増えた気がします。そんな様を見かねて、「何をそんなに退廃的な生活を送っているんだい」なんて、かの人は私に警告をしてくれたのでしょう。

ここで困ったことは、なぜ私がそんな生活に陥っているのか、原因が皆目見当つかないのです。特に大きなストレスがあるわけでもないし、性欲に溢れているわけでもないし、ほとほと困ってしまいました。

そこでふと、思い当たったのが、万物に対する執着のなさです。私には生来、物欲があまりないのですが、それに因果してかせずか、ものごとや人間関係に対する執着が限りなく薄いです。スマホをなくしても、まあいっか、となるくらいには執着心がありません。恋人に別れを告げられても、まあいっか、で終わってしまいます。ですので、今置かれている環境やお金にも執着がないわけであります。だから、仕事もさぼるようになってきたのかもしれません。その時点の欲望の赴くままに生活を送るようになった結果、退廃的になっているのかもしれませんね、

仏教、というか禅の考えの中に、「本来無一物」という考え方があります。「存在する物は、本来すべて空(くう)であるから、わが物として執着すべきものは一つもないこと」という教えなのですが、それでは、なぜ、僧侶はそこで欲を捨て、悟りの道を進むという選択を取ることができるのでしょうか。もし、この選択の本質を見抜くことができれば、私の生活や考え方も変わるかもしれません。楽しみです。

それでは、今回はこの辺りで。ありがとうございました。


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