10月18日
スマホから投稿するの初めてかもしれない。
もう今日は早めに寝ようと思いつつ、明日のお弁当用に仕込んだ鯖の味噌煮の粗熱をとって冷蔵庫にしまうまでなかなかに時間がかかる。
今週は思いっきり遊んだ週末だった。
土曜日は朝からこだまに乗ってやすのりさんと豊橋に。憧れのきく宗の菜飯定食を食べ、手塚治虫展を訪ね、路面電車に乗って名古屋に帰ってきた。
日曜日は豊橋のお土産を家族に郵送した後、バレエに行って、そのあとでミッドランドスクエアにて黒沢清『スパイの妻』を観た。久しぶりの黒沢清作品。黒沢清のクセは全然ない映画だったけどひたすら緊張感があって、疲れた。ここのところエールで戦争のシーンを観たり、三島由紀夫『仮面の告白』を読んだりで、戦時中のことばかり考えて、国家を監視しなければ必ず同じようになると、改めて恐怖を感じた。一生懸命働いてるからいいよね、と思いつつ、毎日を同じように「やり過ごしている」。
一生このままでいたいと思っても、周りは必ず変化する。心地よく暮らし続けたいのなら、むしろ努力し、変化し続けなければならない。
二日間遊び通したからだろうか、すこし微熱がぶり返しているような気がして、自重しなければとも思う。
いくら切り口から水を吸わせても、花は必ず少しずつ枯れていく。花束を贈るかわりに、どうして、「土地を買って、庭に花を植えて、いっしょに暮らそう」と言い出せないんだろう。町の中の土地は値段が高過ぎて手が出ない。庭がほしいなら郊外に住むしかない。でも町の外に住むのはいやだ。すぐ枯れてしまう切り花を汗ばんだ手でしっかり握って、都市にしがみつく人たちのために花屋が増えていく。『百年の散歩』多和田葉子 p.63
そう言えば、通りを歩いていて目に入るのは商品を売っている人と買っている人だけだ。作っている人たちは遠いところにいる。同上p.60
多和田葉子の『百年の散歩』すごく気に入って、じっくり読んでいる。自分が都市で、日々に忙殺されて、何かを蔑ろにしながら、幸福らしきものを(それは他人の欲望を自分の物と取り違えたりしながら)錯覚しながら、本来あるべき感覚からどんどん遠のいている不思議を突きつけてくるようなのだ。
批判ではなくて、どうしてそうなってしまうのだろうという違和感のような、それでも仕方ないけど、仕方なくしない方法もあるのかな、とにかく私はどうしようもなくしてしまったことの始末をなんとかしてつけていかなくちゃ、世界に巻き取られてどうしようもなく買ってしまった花束を、どうやって手放そうか思案する、思案しながら歩く、歩く、歩く。こもっていれば困ることはないのだろうけど、とにかく歩き続けたいことは確かだから、周りを見渡して、違和感も間違いのようなものも焦りながらどうにかこなして、歩き続ける、百年。
そんな作品で、心地よくて、たまにかかとをなくしそうになるけれど、なんとか落下せずに、正しく生きていこうと私も思う。
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