10月3日

土曜日の朝。洗濯機を回して、ゴミ出しのために一瞬、外に出るとすがすがしい朝の風が吹いていた。先週の土曜日の朝も全く同じ、こんな具合で、人目もはばからず思いっきり伸びしたりして、いいなあ、ずっとこの気持ちで暮らしていけたらいいのにって本気で思った。

数年前の土曜日の午前中、私は東急田園都市線の用賀駅を歩いていた。詳しくは用賀駅併設のビルの一階を歩いて、サンジェルマンというパン屋に向かっていた。土曜日の朝は毎週、朝、バレエをした後の母親と用賀駅で待ち合わせをしてサンジェルマンでパンを食べるのが習慣だった。

どちらかが先に着いて席を取る。トマトとチーズのカルツォーネ、枝豆とチーズのブールパン、クリームの入ったあんパンやチョココロネ、あっさりした塩パン、フルーツサンド、さわやかでちょっぴり甘いピーチティ。そんなに広い店内ではないけれど、長年の習慣のせいか心地よくて、家族できたときに父が珈琲をこぼしたのを「大惨事」といって延々と来るたびにおちょくるような思い出のつまった場所だ。

そこに向かって歩いていたある日の土曜日、何度も繰り返されたこの習慣のほんのある一日に、この気持ちがやってきた。
ずーっとこの習慣が永遠に続くと良いなあ。
もちろんどこかで、そんなこと無理だろうな、と思っていた。現に、その翌年から私は大学で土曜日の昼に取りたい講義があって、この習慣を手放すことになった。そしていまや東京を離れ、なんと小麦アレルギーでパンを食べることすらなくなってしまったのだ。

昨日久しぶりに友人と電話をすることになって、彼は今無職だというので、自由の身が羨ましい、もし私に時間が有り余っていたらこうやって気持ちのいい朝を毎日迎えることが出来るのだろうし、東京に帰ることだってできるのに、と少し思った。そして思ったすぐ後で、いや、そんなことないだろうな、とも思った。
忙しくて自由の利かない毎日のほんの一瞬だからかけがえがなく感じるような気がする。安定した収入の、変わらず繰り返される縛られた毎日の土台の上に、休日のちょっとした余白が残されていることが、精神の健康のような、当り前のことを感じて、そんな平凡な自分をようやく受け入れ始めている。

断食を始めたからか、ヨガを始めたからか、はたまた最近の療養生活の産物なのか、心がゆったりとして、たっぷり時間があるような気がして、掃除も洗濯もやるのが心地よくて、部屋が清潔に保たれていることが何よりもうれしいと感じるようになった。以前は午前中から飛び出さずにはいられなかった部屋で、のんびり動画を見ていても、文章を書いていても、ゆっくりできて心地よいと感じられるようになった。おおきなおおきな一歩だよ、これは。

私は、何者かにならなくてはいけないという危機感を、つまり自分が成長するエネルギーを、手放してしまったのではないかとすこし不安になる。
ただ、焦って手当たり次第摑んできたものが結局、私の時間や空間を圧迫し、大事に思っているものを見えづらくしてしまうことも確かなのだ。
そして今この時が一生続けばいいのに、と思う瞬間をその時々で感じられる人生があるなんて、そう思える以上はここにとどまることは絶対に間違っていないような気がする。こんなにありがたいことはないと思った方がいい。

何かにハマったと思ったら、すぐに飽きてしまうような性分で、TwitterのアカウントもInstaのアカウントも早々に抜け殻になるし、何一つ続かない私が唯一続いているのが、こうやって書いたり読んだりすることだというのも幸せな話だ。熱中して打ち込むのではなくて、持続的に、時間をかけて、いつか何かにたどり着くことが出来たら、今も、未来も、きっとうれしいのではないか。

そんな感じで、無理をせずに、自分のペースで続けたいことがいくつかある。
・文章を書くこと
・お弁当を作ること
・ヨガをすること

リズムになってしまえば苦しくないこれらのことが、自分を心地よく保ってくれるし、数年後絶対よかったと思える、持続的な行動です。のつもりです。

あと、最近ようやく西加奈子『サラバ!』を読んだ。普段あまり直木賞系の作品を読むことはないけど、この本は数年前紀伊国屋書店でバイト中に社員さんにおすすめされた。幼いころ三年間インドネシアに住んでいたというと、「サラバ!みたいだね」と言われて以来、なんとなくいつか読むだろうなと思っていたのだ。
直木賞系の作家を避けているわけではないけれど、というか何をもって「直木賞系」というのか、大衆とか純とか正直よくわからないけど、読むと私の悪い癖が出てしまうのが、この手の本だ。それは、ジャンクフードを飲み込むように一気に読んでしまうこと。物語が面白くて面白くて、文章を咀嚼する前にごくごく飲みほしてしまう。いつもそうやって、残る余韻はあるけれど、何か物足りないような、心細い読後感を感じてしまう。

例によってこの本も、あまりの面白さに上中下を一週間たたないうちに、明日会社なのにという日にも夜更かしをして読んでしまった。本当にいい本だ。咀嚼できなくてごめん、また何度もよみかえしたい。

それで、この本の中に出てくる、クレヨン交換の話が面白かった。
主人公の通う幼稚園で流行った遊びで、好きな男の子に青色を、好きな女の子にピンク色を渡す、という遊びだ。必然的に、青色で埋め尽くされたクレヨン箱を持っている男の子はモテるということだし、ピンク色で埋め尽くされたクレヨン箱を持つ女の子もしかりだ。
私はこれを読んだとき、あ~色ってなんでこんなに感覚が共有されるんだろうと不思議に思った。
私も幼稚園くらいのころ、クレヨンの青色を男の象徴、ピンクを女の象徴のように考えていて、クレヨン箱の中でその二つが離れて配置されているといてもたってもいられなくなった。箱の底にうっすらと、「きみどり」「だいだい」「くろ」など置く場所を指南する表示があったにも関わらず、絶対にその二つを隣合わせに置いていた。
いつから青とピンクにそういう印象を持つようになったのだろう? という疑問のほかに、それらがセットになっていないと気が済まないという執着心はなんなのだろうとも思うのだ。
確かに幼稚園ではすでに「私は○○くんと結婚する」とかそういう言説がつねにあったし、「かっこいい男の子」「モテる」という概念は存在していた。いつ生まれたんだろう、そういう価値観は。

小学校に上がったとき、絵具箱を選ぶ段になって、なんの反抗心からか、女の子はピンクを選ぶであろうときに、私は青を選んでいた。覚えている限り、決して私は青が好きという理由ではなく、あまり女子が選ばなそうな方を選んでいた。
案の定クラスで青色の絵具箱を持っている女子は私だけで、「なんで青色にしたの?」と周りから詰められることとなった。人と違うことを好んでしたはずなのに、いざみなから詰められると何も言えなくなってしまい、ひどく後悔することになって。この時が割とトラウマで、あまり突拍子もないことをするのはやめようと消極的になっていったような気がする。しぼむのが早い私の反抗心。

何か、話が続くわけではありません、ただ、そういうときがあったなあということを思い出したということです。今日はこれで日記終わります。サラバ!

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