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上田知華+KARYOBINはどれほど売れたのか?

上田知華+KARYOBINは1978年8月末にデビューし1983年まで5年4か月程活動しました。その間シングル9枚、LP6枚(Classiestを除く)を出しております。最初のシングル4枚、LP2枚は樋口康雄プロデュース、以降すぎやまこういちとなります。最初は樋口康雄色でしたが、LP3枚目以降すぎやまこういちプロデュースになり作曲・編曲:上田知華が多くなってシティポップ路線へと舵を切って行きます。テレビの露出も樋口康雄が音楽を担当した縁も有りTBSテレビ「三男三女婿一匹」(第2シリーズ)19話・1978年9月に出演(演奏歌唱場面)しております。この頃の出演は主にラジオ、ライブなどでしたので、認知度はそれ程高くなくヒット曲も有りませんでした。

ただ、当時としては(今も)ピアノ五重奏のポップスグループは珍しく、こんな事をやっているグループが有ると「小川宏ショー」に出演したりもしました。キー局及び地方局の音楽番組にも出ており、どちらかと言うと業界受けしていたわけです。
初めてヒットが出たのは「パープル・モンスーン」で、これは三洋電機の扇風機(!)のCMのイメージソングに使われた為に世間に認知されたのかと思います。当時の女性セブンの記事にも第二の「異邦人」となれるのかと書かれていますが、それ程当時のCMの認知度は高く「異邦人」は三洋電機のカラーテレビのCMとしてオリコン1980年度年間2位で144.4万枚を売り上げました。

実の所「パープル・モンスーン」はオリコン60位3.5万枚の売り上げと「異邦人」には及びませんでした。しかし、これが上田知華+KARYOBINの最大のヒット曲で有ったのです。
当時は資生堂とカネボウ化粧品がイメージソングで争っており、それを「コーセー化粧品歌謡ベストテン」でTOPを争うと言う展開でDJもスポンサー名を言わないように気を遣う大変な時代でした。

上田知華+KARYOBINは1979年にはテレビドラマやラジオ番組の主題歌、カーター大統領夫人離日の時の歌(ここまで樋口康雄)、1980年倉田まり子に「さよならレイニー・ステーション」を提供しNHK「レッゴーヤング」に上田知華のみ出演。1981年秋色化粧がポーラ化粧品のイメージソング、1982年にみんなのうたで「メロディ」が取り上げられるなどしましたが、流行りのシティポップ路線に舵を切ったにも関わらず「パープル・モンスーン」程のヒットは無く、地味にライブ活動を続けて行きやがてKARYOBINは消滅し、上田知華個人が作曲に力を注ぐ事になって行ったのでした。



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