僕が英語をオヌヌする理由(わけ)
僕が救われた表現たち
高校の友人がオヌヌしてくれたのは、Gleeというミュージカル学園ドラマ。
アメリカでも大流行した(よね?)。一方で、ダサいというお声もよく聞く作品。そんな作品はシーズン6で終わりを告げた。主要キャラクターが高校を卒業し、次のステージへと上がるにつれ、少しずつ下火になっていったように思う。
それでも、僕はこの作品を見終わった時、最後の1話を見た時、止まらぬ涙を止めようともせず、ただ暗くなった画面の奥に映る自分を見つめた。何ならシーズン6が出てから、手をつけるまで少なくとも半年はかかった。ちょうど人生の2回目の「絶望」に直面していた最中でもあったから、当時の僕にはちょっと象徴的な出来事だった。
他にも、僕は高校生の時にP!nkという歌手の"F**kin' Perfect"と"Dear Mr. President"という楽曲に救われた。とりあえず聞いてほしいのだけど、"F**kin' Perfect"に関してはMVが流血シーンなども含むから、あまり見たくない人はMV以外の方法で聞いておくれ。
当時の僕と英語とは顔見知り程度の知人ぐらいの関係性で、話せなくもないけど相手のことをよく知っているかと聞かれると自信がない、そういう間柄でした。
それでも"F**kin' Perfect"を聞いていると、僕の代わりに誰かが叫んでくれているような感覚になった。"Dear Mr. President"は、当時のアメリカ大統領に対して、「こっちに来て一緒に歩きませんか?」と語りかける。曲調が少し強くなるけど、どこか堪えているような声で「路上にいるホームレスを見て、何を思うの?」「鏡の中に映るあなたを見て、自分のことを誇れる?」「母親が自分の子どもにさようならを言うチャンスすらない中、あなたはどうやって夢を見るの?」「ハードワークって何かわかる?」と語りかけた最後に、「あなたはもう二度と私と一緒に歩いてくれない。そうでしょ?」と言って終わる。
僕は、アメリカの文化の中から生まれたGleeとP!nkに救われた。でもね、僕が英語を学ぶことをオヌヌするのは、これだけじゃないの。
空前のタイドラマブーム
タイです!Thailand!個人的には、3年程前からタイドラマを見始め、無事に僕のInstagramは推しが溢れかえっております。一回ごめん、色んな社会的課題とかは棚上げしてタイドラマについて話すね。
GMMTVという大手を中心にいくつかの配給会社があるけど、何がすごいってYoutubeで視聴できるの。最新作をタイの時間に合わせて放映してくれる。ただ言っておきたいのは、とかく日本語字幕は多くないということ!それはそう。なぜなら、日本だけが市場ではないから。それを考えれば、日本でしか使用されない日本語を対象とせず、広く認知されやすい英語を字幕として採用するのは自然な流れだと言える。
僕はこのタイドラマを見ていると、留学から帰国した後も英語を勉強し続けてきた自分に心から感謝したくなる、というかしてる。盛大に自分を抱擁してる。
触れられるコンテンツが何倍にもなっていることで、自分たちが表に出さないようにしてきた、ある種「僕らのストーリー」が世界には溢れているの。しかし、日本語のみだと、誰かが選んだものから選ぶしかない。自分の世界を自分で広げる楽しさは段違いだし、それを共通言語としての英語でもって切り開く自分という存在は、「最高」以外の何ものでもない。
僕の推しが気になるでしょ。わかります。いつか語り合いましょう。
さっき棚上げしたこと、机に戻すね
タイドラマに救われた僕がいるのは事実なの。それは、紛れもないこと。でも、手放しに全てを受容しているかといえば、そうでもないわけ。
①登竜門という役割
タイドラマで気になることの一つは、男性同士の同性愛を描くことが大きな市場を築く中で、新人俳優の登竜門となっている現状を、どう考えたらいいのかわからないこと。誰もが望んだ役で自分のキャリアを始められるわけではない。需要があるのだから、それだけチャンスも広がるわけ。
そのコンテンツに救われている一方で、誰かのキャリア形成に利用されていること、つまり「僕らのストーリー」だと思っていたものが、実際には出世の道具にすぎないのかもしれないという疑念がどうしても振り払えない。そこは互いに利用しあって目を瞑ればいいのかもしれない。でも、果たしてそういう関係性でいいのかね。そう考えると自分が推していること自体が、何だかとても空虚になるわけだけど、やっぱりどう考えたらいいかわからない。
②異性愛を前提とした表現
次に、ジェンダーの視点で考えたときに、異性愛主義的枠組みでドラマが展開することが少なくないということ。タイ語やそれを形成するタイの文化を深く知らずに、上澄みだけをすくった言い方かもしれない。しかし、男性同士の恋愛において、パートナーを「妻」と形容することが少なくない。恋愛関係とは、男女を起点にして発展してきたかのような前提が、そこには見て取れる。その奇妙な上下関係は、果たして必要なのだろうか。しかし、そこには文化的表現が含まれる可能性もあるから、あくまで翻訳を見た上で気になることである。
③踏み台の存在
他にも、男性同士の恋愛関係を描く上で、女性ジェンダーを「踏み台」的にするストーリー展開がどうしても多くなる傾向にある。これは、同性愛者の側に問題があるというより、やはり異性愛主義の問題と言わなくてはならない。
物語の出発点で多くの場合、全ての登場人物が異性愛であることを前提として描かれる。恋愛関係を形成する二人が、その過程で女性ジェンダーに好意を寄せているように振る舞うが、結果的にその女性ジェンダーを振り、傷つけた上で男性同士の恋愛を描く。
でも、誰かを踏み台にして、誰かを傷つけて関係性を結ぶというプロセスが本当に必要なのだろうか。これ自体は現実的な表現であるとは思う。しかし、だからと言って、表現の上で「僕らのストーリー」の下敷きになる存在を女性ジェンダーに担わせることを放置していていいのだろうか。それ以外の方法があるし、実際そういう作品も存在している。
最後に
ありがたいことに英語に触れる機会をたくさんもらい、僕自身も自分から積極的に開いてきた。そうした環境を与えてもらったことに感謝すると共に、その環境の中で英語力を確実に形成してきた自分にも感謝なわけです。
英語という言語を学ぶことを通して、日本語やそれを形成する日本文化を相対化する経験を得て、今の考え方や言葉が形成されている。日本文化や言語を違う角度から見てみる経験は、とても面白いと思うわけ。それに、それは英語に限らない。タイ語を学んでタイドラマを見れば、僕なんかより深い考察が可能だし、タイで交わされている議論にも参画可能になるかもしれない。
共通語としての英語は、それ以上でもそれ以下でもない。実際には、英語は他言語に対して優越的に思われるし、そうした国際関係の築かれ方をしている。一例を挙げるのであれば、「国際関係」と言われた時に日本という地域で生まれ育ち、教育を受けた我々は、誰を即座に想起するでしょうか。留学というと、英語圏が最初に思い浮かぶのではないでしょうか。加えて、そこにシンガポールやタンザニア等のアフリカ諸国やインドは含まれるでしょうか。
僕らの思考は、僕らが思っている以上に歴史的に形成されてきた国際関係に、非常に大きな影響を受けている。僕がアメリカで英語を学ぶことにしたのも、その影響によるところが大きいのは間違いないです。アメリカに憧憬の念を抱いていたことの背景には、日本の歴史的展開と地続きなわけです。
総じて言いたいのは、惹かれる言語を学んでおくれ、ということ。特に、日本社会で生まれ育ち、その社会の中で苦しさを感じる方々にとって、今見ている世界が全てでないということを自覚し、実感を伴って自分の言葉にする上で、他言語を学ぶことは一つの方法だと思う。そうして誰かの言葉や考え方が、違う角度で耕かされることで生まれる言葉や考えに僕は惹かれるのです。
今回も脱線を繰り返しながら、何とか本筋まで辿り着かせました。やってやりましたよ。フォローしていただければ最高に嬉しいですし、「スキ」や「コメント」いただければ、自宅でぴょんぴょん跳ねます。1階に住んでるので安心してください。
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