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【母方ルーツ#5】 大浦崎、大津島、宿毛・・・


日差しが明るい部屋でしかこの内容が書けなくて、今こうして背中にお日様を感じながら記事を綴っています。

楽しげな内容とは程遠い。

けれど、だからこそ穏やかな空間の中で向き合いたい、そんな時間です。

前回からの続きです。



横須賀、大楠、大浦崎、大津島、大神、宿毛・・・

祖父の足取りはこのようなものだったのではないかと仮説をたてました。

横須賀、大楠、大浦崎、大津島、(大神)、宿毛。


再び祖父の履歴です。

履歴
昭和17年 横須賀海兵団 (21歳)
昭和18年 安州丸
昭和18年 「工機学校 」
昭和19年8月 「第一特別基地隊」
昭和20年3月「大楠海軍機関学校」卒業
昭和20年3月「第二十一突撃隊」 (24歳)

戦歴証明にはこれだけの情報しかありません。

何か手がかりはないかと図書館から借りた回天に関する本たち。


回天搭乗訓練者の証言の言葉の中に、祖父の名前が出てこないかとページを進める一方で、名前がないことに安堵する自分もいるのです。

さまざまな資料から、祖父は回天の搭乗員ではなく機関兵として整備を担う技術職として任務していたことが推測されます。

搭乗員名はリスト化され書籍内でも紹介されていますが、整備兵に関しては情報はありませんでした。

実はある一冊の本の中に、祖父と同姓兵曹が回想中の人物として登場し、ドキリとした瞬間がありました。
震えながら文字を目で追っても内容が全く頭に入ってこなくなったのです。

一旦本を閉じ、深呼吸。

改めて冷静に確認すると、状況からみて祖父である可能性は低い、という結論に至りました。
それは撃沈された船からたった一人救出され生還した兵の証言だったからです。

けれども、自分の内側には知ることへの恐れがあることを認識した瞬間でもありました。

知りたい、でも怖い。
内側にある私の心の葛藤です。

出口のない海


参考のために読んだ一冊に、横山秀夫著「出口のない海」があります。

2006年には市川海老蔵さん主演で映画化もされており、小説に先行してこちらも鑑賞しました。

主人公の並木は学生野球の投手として活躍するも、戦況により学徒動員で回天の搭乗員となります。
志願兵として海軍に入隊した祖父とは異なる道を辿るのですが、世代はほぼ同じ。

戦況と時代背景に関する表現が、単なる資料を並べるよりも思い浮かべやすかったので、作品中から抜粋、引用を用いながら思いを巡らせていくことにしました。

昭和16年は「鬼畜米英を撃て」の大合唱とともに瞬く間に暮れ、明る17年は勇ましい軍艦マーチと抜刀隊の歌で明けた。
新聞とラジオは連日、陸・海軍部による戦果報告を派手に伝えていた。まさしく破竹の勢いだった。国内は沸きに沸いた。
(中略)
日本軍の快進撃は束の間の夢だった。
開戦から半年後の17年6月、日本海軍の誇る航空艦隊が米海軍の機動部隊にミッドウェー海域で大敗を喫した。わずか2日間の海闘で虎の子の主力航空母艦6隻のうち4隻を失い、航空機322機と熟練した優秀なパイロットの大半を海に散らした。
このミッドウェー海戦を機に戦局は逆転した。

横山秀夫 「出口のない海」

このような戦況下の昭和17年5月、祖父は機関兵として海軍に入隊し横須賀海兵団で基礎訓練を受けたのちに、横須賀海軍航空隊配属を経て18年2月補給艦安州丸配属となっています。

祖父が安州丸に乗ったのはほんの3ヶ月程度だったようですが、この船の詳細な船歴が残されており、昭和19年5月「パプアニューギニアからボルネオに向け航行中、被雷損傷し沈没」とありました。

短期間とはいえ祖父が搭乗した船が1年後には撃沈されているという事実に衝撃を受けました。

むしろ終戦まで残った船の方が少ないのかもしれません。
けれど生死の境目がそこかしこにあったことを痛感し、改めて戦争の恐ろしさを突きつけられました。


さらに戦況は刻々と悪化していきます。

昭和18年2月、日本軍は半年に及んだガダルカナル島での激戦に敗れ撤退を開始した。
5月にはアルーシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕。「国民総戦闘配置」の方針が固まり、軍部の目は学生に向いた。(中略)
9月、法文系の大学生、予科学生、高校・高等専門学校生徒に対する徴兵猶予の全面停止が閣議決定された。(中略)
10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が明治神宮外苑陸上競技場で挙行された。(中略)
昭和19年2月26日、海軍軍務局は呉海軍工廠魚雷実験部に対し「○六」の暗号名で人間魚雷の試作を命じた。(中略)
7月にはサイパン島、8月にはテニアン島が玉砕。

出口のない海

たった数ヶ月の間に世の中の状況が激変していく様子がわかります。
どう考えてもボロボロの状況で、学徒動員の流れへ突き進んでいく。
そして昭和19年2月には人間魚雷回天の試作が始まるのです。

小説、出口のない海の主人公並木の人生もあっという間に戦争に飲み込まれていきます。

回天搭乗員は予備学生と予科練は志願制。兵学校、機関学校出身者は潜水学校の教程を終えた者の中から任命されたとのことでした。

海軍入隊後、技術知識習得のため機関学校に籍を置いていた祖父もまた回天作戦のため動き出したばかりの第一特別基地隊への配属を任じられたのでした。

呉市 大浦崎  

昭和19年8月1日試作基 ○六金物一型」が海軍大臣の決済が下りて正式に兵器として採用され「回天一型」と命名された。
これに先立ち、回天の搭乗員の養成、すなわち回天の戦力化を目的として、7月10日、特別基地隊令が制定され、P基地を「第一特別基地隊」と改称して呉鎮守府長官の麾下におくこととした。

「回天」に賭けた青春

祖父の第一特別基地隊配属は、昭和19年8月23日。
軍部による回天作戦が決定し、まもなくの配置命令だったことがわかります。

P基地」とは用途を隠匿するために使われた内部の通称で、正式には「大浦分工場」「特潜訓練基地」と分けて呼ばれていました。
特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設があり、正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。
呉海軍工廠造船部大浦分工場は昭和17年10月から極秘裏に建設された特殊潜航艇『甲標的』専用の生産工場で、昭和18年3月に操業を開始。
太平洋戦争末期になると甲標的だけではなく甲標的丁型『蛟龍』や人間魚雷『回天』も研究開発され、搭乗員の訓練も行われました。
現在はP基地跡は呉市内大浦崎公園となっている。

呉市周辺の遺構まとめ

P基地、すなわち第一特別基地隊は呉の大浦崎にありました。

やはり呉…

当初、回天の隊はP基地で甲標的の特潜隊と数日同居していたが、教育や訓練に支障があった。甲標的と回天が同じ海面で訓練するのは危険であり、機密保持の点からも問題がある。また必死兵器の回転搭乗員と特潜隊員との間には、当然ながら異なった空気が生じてくる。死を覚悟して出撃し助かる可能性が多少はある甲標的と、死ぬことでしか任務が達成できない回天とでは根本的に性格が異なる。何をおいても回天の基地を造らねばならなかった。そこで山口県徳山湾の入り口にある大津島に回天の基地を設けることにした。(中略)合計44名が相前後して着任。
9月1日付けで大津島基地が開隊した。

「回天」に賭けた青春

上記引用内に大津島開隊前後には大浦崎と大津島を行ったり来たりしていたとの記録があることからも、当初は呉の大浦崎に赴任し、ほどなくして回天最大の拠点となる山口県大津島に移り、任務にあたったことが想像されます。
着任した44名の1人であった可能性も考えられますし、訓練のごく初期から携わっていたのかもしれません。

のちに大津島は回天の島と呼ばれるようになりました。

回天の島 大津島

大津島ではたった三基の試作基から訓練が始まったといいます。

しかし、大津島基地の前途は多難であった。回天の生産が遅れていた。訓練用の回天がまだ三基しかない。しかも三基とも試作機なのである。(中略)
「一基の回天で、3日間に2回訓練しなければならない」「できません、いくらなんでも」整備長の浜口は憤然として体を震わせながら答えた。(中略)浜口が手がけた回天はおびただしい数だが、整備不良で事故を起こした回天は一基もなかった

「回天」に賭けた青春

これは指揮官と整備長のやりとりです。
この整備依頼がどれほど難題であったのか刻々と綴られています。
けれども使命感と熱意に押され整備兵たちも奮起せざるをえなかったようです。


この整備長の下、祖父も初期回天の整備を行っていた可能性も考えられます。

当初は搭乗訓練さえもままならない所からスタートし、その後回天は増産され、搭乗員も増えていきます・・・

ただ立ち尽くすしかない…

大津島は現在の山口県周南市。

ここには回天記念館があります。
いつの日か必ずここも訪れなくては。

そう思っていたら、noteにとても充実した大津島の記事がありました。

ISSAさんの記事を通じて大津島の景色、空気を感じることができました。

悲しい歴史の場所ではあるけれど、海は美しく空は青く澄んでいる。
それがいっそう切なさを引き立たせます。

今も昔も海や空は同じようにキラキラとそこにあり、当時祖父が目にした風景もこんな風に美しかったはずです。

けれど祖父が穏やかな気持ちでそれを見つめた瞬間などなかったのかもしれません。

訓練中の悲しい事故も多々あったそうです。
そして搭乗員は神様のような顔、目をしていたと言います。
その姿を間近で見つめながら油まみれで黙々と整備を行い、訓練の下支えを行っていた日々…

神々しい眼差しで散っていく若い搭乗員とその景色の美しさが重なるようで胸が苦しくなります。


引用にもあったように「死を覚悟して出撃することと死ぬことでしか任務を達成できない」ことの差を日々黙々と受け入れながら、送り出す準備をすることもまた言葉では言い表せない感情がそこにあったことでしょう。

私の想像など到底追いつくはずもありません。

時には無力感に打ちひしがれ、ただ立ち尽くすしかないこともある。けれど、言葉を失いただ立ち尽くすということもまた、寄り添う方法の一つかもしれない
という話を聞いたことがあります。

言葉や想像で追いつけるとも、理解できるとも思いませんが、ただこうして立ち尽くしかない自分を感じることが小さな一歩かもしれません。

そして・・・

大津島に続いてその後も回天の訓練基地が増えていきます。

昭和19年11月には山口県の光基地、昭和20年3月には山口県平生基地、昭和20年4月には大分県の大神基地がそれぞれ開設されています。

終戦までの数ヶ月の間で戦況はさらに悪化。

祖父の所轄の記録には昭和20年3月15日「第二十一突撃隊」とあります。

突撃隊…

続きはいずれ。

ここまで読んでくださりありがとうございました。


どうか世界中の人が穏やかな心で美しい青空を見上げられますように。


【参考資料】
江田島海軍兵学校  徳川宗英
回天の群像  宮本雅史
「回天」に賭けた青春  上原光晴
あゝ回天特攻隊  横田寛
出口のない海  横山秀夫
回想の潜水艦戦  鳥巣建之助
証言記録 兵士たちの戦争   NHK戦争証言プロジェクト

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