ほうき星の夕べ | 紫金山•アトラス彗星
「ほら、あの小枝の少し上の方に見えるよ」
示された方向にじっと目を凝らすとぼんやりと星が尾を引いているのがわかる。
8万年に一度のチャンスということで天文好きの間で話題になっている、紫金山・アトラス彗星だ。
数日前からInstagramのタイムラインは私の“いいね”の嵐に呼応して彗星の写真で溢れていた。
土曜の偶然
私は夕日を見るのがとても好きだ。
毎日見ても飽きない。
近所で見るのも、遠出して見るのもいい。
じっくり太陽を見つめられるこの時間は至福の時。
空の色の変化もたまらない。
この日は、はるばるアメリカまで訪ねてきてくれている友人にテキサスの地平線に沈む夕日を見てもらいたいと、特に目的地を決めず西へ西へとドライブに出かけた。
太陽が沈んだあとの西の空は真っ赤に染まり雄大な景色を作っていた。
東への帰路はちょうど背の方向となってしまい、時々後ろを振り返る。
そしてほんのひとときのマジックアワーを迎えてまもなく、辺りは暗くなった。
肉眼では地平線まで暗いのに、カメラで撮影するとまだほんのり赤みが残るのが面白い。
この時、彗星のことなど全く頭になかったのに、なんとなく西の空の写真を残した。
その後のこと。
そろそろ彗星が見られるらしいという話題になり、調べてみるとそれは西の空の地平線近くに見られるのだという。
そういえばさっき西の空の写真を撮ったなぁと自分の写真を拡大して見返してみたら、なんとすみっこに小さく彗星が映り込んでいた。
全く意図していなかったので肉眼でどんなふうに見えていたかはわからない。
しかし確かにそこに彗星が存在していた。
数日間は観測できるとのこと、翌日も当然チャンスはあるはずだ。
これはぜひ肉眼で見てみたい。
日曜の必然
翌日曜日。
日没後空が開けた場所を求めて、いつもの散歩コースにあるサンセットポイントへ向かう。
普段から夕日を見る人で賑わっているが、この日は日没を過ぎても数人の人が空を見上げていた。
皆、彗星を眺めにやってきたらしい。
空全体はずいぶん暗くなっていたが、西の空はほんのりと明るさを残していた。
金星がキラキラと湖面の少し上に輝いているのが目に入る。
この近くに見られるはずだ。
彗星もきっとこのくらい輝いているに違いないと心を躍らせる。
期待と共に視線を移動させるが、それらしきものは見えてこない。
するとすかさず声をかけてくれた人がいた。
「ほら、あの小枝の少し上の方に見えるよ」
教えてくれた方向に目を凝らすと、ぼんやりと白い筋のようなものが見えた。
目が慣れると、はっきりそこにあることがわかる。
「わぁ、あったあった!」
簡易望遠鏡をのぞいていた女性がどうぞと手渡してくれた。
肉眼では淡くぼんやりした箒星が望遠鏡越しだと、はっきり見える。
「見えた!見えた!」
近くにいた人たちと、望遠鏡を手渡し合いながら感動を共有した。
人間の目だけで見るには限界がある。
こうして望遠鏡を覗いてみたり、カメラで撮影することで、その位置を確認する。
天の川やオーロラなどもカメラという“眼”を通すことで浮かび上がる不思議。
それはiPhoneで撮影可能なのだ。
一眼レフのようにはいかないけれど、立派にお役目を果たしてくれた。
その後双眼鏡を貸してくれた女性とInstagramのアカウントを交換し少しおしゃべりをした後にその場を後にした。
月曜日の再会
さらに翌月曜日。
よりハッキリとした彗星が見られるのではないかと、期待をこめて前日同様サンセットポイントへ向かった。
前日よりも少し早い時間でまだほんのり空は明るかったが、さらに多くの人で賑わっていた。
その中には前日と同じ顔ぶれが見られ、2回目となると、なんとなく仲間意識も芽生えてきた。
昨日のお仲間さんとの再会。
「昨日はどうも」
と軽く挨拶を交わし空を眺める。
彗星は前日より少しだけ高い位置に見えるはずだ。
やはり薄ぼんやりとしていて、肉眼では捉えにくいが彗星とも再会を果たすことができた。
この日も望遠鏡を覗いたり、カメラの写真を見せあったりしながら彗星の場所を確認しては後から来る人に場所を伝えたりしながら空を眺めた。
時間の経過とともにハッキリと見えるかと期待したが、この日はそのまま見えなくなってしまった。
「肉眼では昨日の方がよく見えたねぇ」
そんな話から始まって、
「星空を見るのが好きなの?」
と他愛のない話を楽しんだ。
インド系の彼女は艶々のお肌と、クリッとした瞳がイキイキと輝いていて幸せなオーラが溢れている。
気づいた時には他のギャラリーは解散しており、私とその女性しかいなくなっていた。
そういえば少し前に、インド人の友達が欲しいなぁ、と思っていたことを思い出す。
なんだか彗星によって願いが叶ったような気がした。
相変わらず私の英語は上達の実感はできないが、拙いなりになんとか意思疎通ができるということがわかり最近は人が怖く無くなってきた。
見えないものを見ようとしてじっと眼を凝らしたり、変わるがわる望遠鏡を覗き込んだり、忍耐強く指差しながら場所を伝えたり、写真を見せあったりしながらの星空観察は、なんだか人と人とのコミュニケーションによく似ている気がした。
今も言語というツールが私にとって一つの障壁となっていることは変わりないが、心が通じ合う時にはいつも言語を超えた魔法みたいなものが繋いでくれる。
そのテレパシーのような魔法はきっと人が星のかけらだった時から、ずっと私たちが内包していたものなんじゃないだろうか。
そんなことを思う、豊かな秋の夜のひとときだった。