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【こはる日和にとける】#12 月とサンダル
幼い頃住んでいた長屋には風呂がなかった。
風呂がないことは当たり前で、特段それを苦とも善しとも思ったことはない。
炭鉱町に住む皆同じで、そういうものだと思っていた。
町全体は数十軒ごとに地域が括られており
楓町、鴬町、山吹町、向日葵町など、風情ある名が付けられていた。
幼いわたしは本来の意味に先んじて町のイメージでそれらの言葉を覚える。
山吹町には山の神さんが祀ってあり、向日葵町にはゆきちゃんが住んでいる。
鴬町は空き家が多く(そこは野良犬の棲処)、若葉町には母と仲良しの山田のばあちゃんちがある。
楓町の入り口には床屋があって・・と、こんな具合に。
そしてわたしの住む坂の上の地域は桂町。
当時、桂という美しい木の存在を知らなかったわたしは。
もとい、多分わたしと同年代の子たちは「かつら」と聞けばイメージするのは、鬘(カツラ)一択であっただろう。
ドリフのカトちゃんが装着しているアレである。
折々の地域ごとのイベントでは町の名が拡声器を使って叫ばれ、つどわたしは「ああ、もうっ」と身の置き場のなさを感じていたことも覚えている。
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さて、風呂である。
記憶が定かであれば、町全体で風呂屋は二軒あった。
楓町に一軒、弥生町に一軒。
無料で利用できるゆえ、銭湯という呼び名はあてはまらない。
シンプルに、風呂屋、である。
いずれも大規模な造りをしていた。
砂粒の粗いセメントタイルの風呂釜はぐるりと優に50~60人で囲めた。
石炭で沸かす風呂はボイラー室から怒ったような音をたて、毎日風呂屋の裏からもくもくと煙を吐いていた。
わたしの母は一番風呂を好む人であった。
17時に開く風呂屋にあわせて、夕飯の仕度を粗方済ますと
「風呂行くよー」
と、こんどは風呂かごの用意を始める。
かごは赤いプラスチック製の洗濯かごで
洗面器、石鹸とシャンプー、バスタオル。
下着とパジャマがうまく収まる大きさだ。
風呂へは、夏はお気に入りのサンダルを素足で履いて行けるけれど、
冬は寒いので靴下に靴を履かなきゃならない。
これが風呂あがりにはどことなく気持ちが悪かった。
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さてここに、真新しい赤いサンダルがある。
中がふわふわでスリッパみたいに爪先まで覆われている。
正面には動物のキャラクターが可愛く描かれ、素足で履いても温かい。
冬休みに妹とおそろいで母が買ってくれたものだ。
早く履きたい気持ちと、もったいなくて外にはまだ下ろしたくない気持ちの狭間で、潔く結論を出せぬまますでに一週間以上が経っていた。
結果、家の中で履いている。
足にはもうすっかり馴染んだ。
椅子に座ってこんなふうにクイクイと足首を動かしても脱げないコツもすでに掴んでいる。
クイクイ。
ほら。
但し妹とふたりして家の中をカタカタ鳴らして歩くたび、母からは
「外で履きなさい」
と、怒られるのが面倒ではあるのだけれど。
「行くよー!」
母の声がせかす。
あ~どうしよう。
風呂上がりの靴下と靴の相性の悪さをあらためて思い出す。
けれどそれもしばらくすれば慣れっこにはなるはずだ。
この可愛いサンダルを家でスリッパとして履くハイカラ風な生活も今となっては捨てがたい。
汚れちゃうのも、やっぱり嫌だしなぁ。
あ、でも今日はゆきちゃんに会えるかもしれない。
そうしたら、このサンダル見せられるかも。
「はよせんね!」
あ~もうっ!えいっ今日だ!
わたしは厚手の半纏を羽織り、履いていたサンダルのまま外へ降り立った。
妹もそれに倣ってついてくる。
「やっと下ろすとね」
迎えた母が呆れた顔で笑ってくれた。
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風呂屋に着くと番台にはいつものおばちゃんが座っている。
「一番よ~」
「お世話様~」
母との定番のやり取りを交わすと、おばちゃんがよっこらと降りてきた。
わたしと妹はサンダルを脱いで下駄箱の隅に並べて置く。
妹のは桃色だ。
「今日は寒かけんね~熱めに沸かしたとよ」
おばちゃんは番台を降り、板張りの脱衣所を音をたてて急ぎ足で抜け、ガラガラガラと引き戸を開けて風呂場へ入って行った。
あ、湯揉みだ。
わたしは急いで服を脱ぎ、母が妹の服を脱がせているのを横目にペタペタとおばちゃんを追いかける。
おばちゃんは奥のボイラー室につながるドアを開け、長い木の棒を取り出して出てきた。
棒の先には四角い板が付いている。
それを勢いよく湯船に差し入れると、がっぽがっぽと掻き混ぜはじめた。
まだ誰もいない静かな風呂場に湯を揉む音だけが響き渡る。
がっぽがっぽ、ざばんざばん。
がっぽがっぽ、ざばんざばん。
「手ば入れてみんね」
と言われ、そろそろと湯を触る。
「うん。…いいかんじ」
すると場所を変えて、また
がっぽがっぽ、ざばんざばん。
「どうね?」
「うん、よか」
わたしはおばちゃんについて回りながら湯加減をチェックしていく。
日によってはちょっと触るだけで「熱っつ!」となる時もあり、
そうするとおばちゃんは大きな蛇口を両手でひねって勢いよく水を出す。
さらにその水を全体に行き渡らせるため大急ぎで湯を揉み始めるので
そんな時は邪魔にならぬよう、さっと身を引くこともわたしは心得ていた。
一気にもくもくと湯気に覆われた風呂場に母と妹も入ってくる。
洗い場で頭や体を洗っているうちに続々と人も入って来た。
それにしてもおばちゃんたちの声というのはよく響く。
自然子供もいくら騒いだとて目立つことはなく叱られることもない。
一番風呂の静けさはほんの一瞬で、あっという間に賑やかな音が風呂場を満たした。
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わたしはひと通り洗い終えるとざばんと湯船に浸かった。
「ちーちゃん」
呼ばれた方を見るとゆきちゃんがいた。
「ゆきちゃん!」
「ちーちゃん、もうあがると?」
「うん。もう洗い終わったよ」
「わたし、これから」
ゆきちゃんはしっかり者で整った字を書く女の子だ。
「ちーちゃん、お風呂あがったらブランコで遊ばん?」
風呂屋の外にはブランコが二台ある。
運動音痴のわたしでも得意とする遊具で、その誘惑には特段弱い。
「遊びたい!」
「じゃあ、急いで洗うけん待っとって」
「分かった!」
見ると母は洗い場で隣になった近所のおばちゃんと話し込んでいる。
こりゃまだまだ時間はたっぷりかかるだろう。
わたしはお湯からあがるとかけ湯をして風呂場をあとにした。
体を拭いて着替えているうちに、ゆきちゃんがもうあがってきた。
「はやーい!」
わたしがビックリ顔をすると、ゆきちゃんはにっこりと笑う。
ショートカットの髪が黒々と濡れて、体からはぽっぽと湯気がたっている。
そして着替え終わり、下駄箱へ。
ゆきちゃんが靴を置いてしゃがみ靴下を履いている横に、わたしはおもむろに赤いサンダルを置いた。
「うわっ!なーん?かわいかぁ」
フフッ。
思った通りのゆきちゃんの反応にわたしは内心ほくそ笑む。
「冬休みに買ってもらったと」
「わあ、中がふかふかになっとる!」
「うん!裸足で履いてもぬくかよ」
わたしたちはひとしきりサンダルを囲んで話に花を咲かせた。
「じゃ、行こう!もう男子に取られとるかもしれん」
そうだった。
ブランコは二台のみ。
男子に先を越されれば諦めるしかないのだ。
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外に出るとあたりは今にも暮れそうな薄暗だった。
夏ならば同じ時間でもまだまだ明るいのに、と思う。
ブランコには人はおらず、ぽつんとそこにある。
「やったー!」
ゆきちゃんと一目散に駆け寄った。
ただ、学校のよりも錆びだらけで劣化しているのは明らかで、さすがに2人乗りはやめて横並びで漕ぐことにする。
いきおい握った持ち手の鎖の冷たさに、一瞬だけひるむ。
「ちーちゃん、サンダルで平気~?」
「平気、平気~」
だんだんと調子にのり、地面を蹴ってもっともっとと高く漕ぐ。
冷たい風があたって気持ちがいいのは最初だけで、濡れたままの髪の毛がみるみるとキンキンに冷えていった。
さらに薄闇に慣れた目に、遠くの木々が怪物のように黒く浮かび上がって見え「ひょえ~!ひょえ~!」と、わたしはふざけて悲鳴に似た声をあげた。
隣でゆきちゃんはたぶんにっこりと笑っているだろう。
なおこちゃんなら一緒に「ひょえ~!」って言ってくれるかもな、とちょっとだけ頭によぎった。
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「帰るよー」
母たちが連れ立って風呂屋から出てきた。
ブランコは名残り惜しいけれど、すでに寒さは限界だ。
冬の風呂あがりにする遊びではなかった。
「じゃあねー」
「また明日ねー」
母が冷たくなったわたしの頭にバスタオルをほっかむりのようにして捲いてくれる。
かじかんだ手に息を吐くと、手のひらから錆びた臭いがした。
「うげー」
顔を上にそらすと、そこにまんまるの月がぷっかと浮かんでいる。
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「お母さん、月!」
「ほんとだ。満月かねぇ」
妹の手を引きながら母が言う。
落っこちてきそうな大きな月がつよく白白と耀くので、わたしはすっかり目を奪われてしまった。
いつか本で読んだ月に住むうさぎのことを思い出す。
「うさぎ、おるかねぇ」
母に訊くと
「おる、おる」
と言う。
目を凝らして見ると、うさぎの影らしきものが見えなくもない気がする。
そしてはたと、気づく。
ここまでいくつか角を曲がってきたけれど、月はわたしについてきている。
ためしに走ってみる。
月もそそとついてくる。
急ブレーキをかける。
月もぴたと動かない。
「お母さん…」
「なに?」
「わたし、月に追いかけられよるみたい」
「あら」
「お母さんにはついてこん?」
このタイミングで、母はここぞとばかりに得意の法螺を吹いた。
「さ~あ、お母さんにはついてこんねぇ」
じつは母には時々澄まして法螺を吹く、とぼけたところがあった。
熊本市内の電波塔を東京タワーだと言ったり
におい消しは鼻の穴に詰めるもんだと言ったり
迫真の死んだフリでは幾度騙されたことか。
「あらあ、そりゃちーちゃんは特別とよ。お母さんにはお月さんが動いては見えんもんねぇ」
とくべつ。
悪くない。
わたしは夜空を見上げにんまりとする。
月は飽くことなく家まで従順についてきてくれた。
以来、暮れるのが早い冬の風呂の帰りは月と歩く道となった。
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大人となり今、ふと、夜空を見上げてみる。
月は平たく地上を照らしている。
そういえば歳を経て、あの頃のようには月と親しく歩いていないことに思い当たる。
母の「ついてきてない」という言葉。
またとぼけたこと言って、と長年思ってきたけれどあれはあながち法螺ではなかったのかもしれない。
月と歩く感覚は幼い時分特有のもので、味覚や嗅覚と同じように歳を重ねるごとに変化するということか。
いずれにせよ、月をともなう冬の道は心つよくわたしの記憶に染みている。
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さて、幼いわたしもまた、すりガラスの窓を細く開け夜空を見上げている。
さっきまであんなについてきていた月が、やけに見えづらいところで光っているので
「わたしはここだよ」
と呼んでみる。
けれど、もはやお役御免とばかりにこちらに近づいてくる気配はない。
「また明日ね」
わたしはそおっと窓を閉め、鍵をぐるぐると回してかけた。
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真っ暗な外玄関の三和土では、おろしたての赤いサンダルが土まみれとなってひっくり返っている。
考えなしに及んだブランコ遊びの代償である。
翌朝気づいたわたしが「うげーっ!」と驚き、嘆き悔やんだことは言うまでもない。
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こんにちは
haruです
ここまで読んで下さり
ありがとうございます
すっかり冬の空気となりましたね
今回は久しぶりに
子供の頃のエピソードでした
冬の空に浮かぶ月と
おろしたての赤いサンダル
そして
大きな風呂屋の話
いかがでしたでしょうか
月と歩いたこと
皆さんも経験ありますか?
あの心強さ
また感じてみたいものです
それでは
来週もまた
よければ
ここで
haru