★『自らに手をくだし: 自死について (叢書・ウニベルシタス)』J.アメリー、大河内了義
読み続け、語り続ける。そうすることで、人は自我という閉ざされた部屋の ドアを開けることができるのではないだろうか。
ジャン・アメリーの作品との出会いは、前にも『罪と罰の彼岸』の書評の中で述べたが、W・G・ゼーバルトの著作の中で紹介されていて知ることとなった。
今回は、彼の遺作ともいえる、1976年に出版された作品を取り上げる。
ジャン・アメリーは第二次世界大戦においてナチスドイツの強制収容所を生き延び、戦後文筆活動を続けたが、本書出版後、1978年に亡くなっている。自死だった。
その事実をふまえてこの本を読むと、本書を執筆することが、アメリーにとって、どのような意味を持つものであったのかということが、書かれた内容とともに、極めて重要な点だと思われる。
アメリーのこの最後の著作『自らに手をくだし』は、標題の通り自死について書かれたものだ。
その考察は自ら表明している通り、自死について、あらゆる意味で学問的・客観的な論述を目指してはいない。
そして、自死という結果からみれば、アメリーがこの本を残したことは、自らの行為に至る内面の様相を、他者の憶測を排して、その真実を自身の言葉で明確にしておきたかったのだと思う。
この本は、生きている側から見られた「自死論」ではなく、どこまでも自死という行為の主体者の側から語られた、当事者の内面の様相だ。
アメリーはこれに、彼の言葉を借りれば「言葉の及ぶかぎりにおいて」証言を与えようとしたのだった。
私たちの多くは、個人的に知っている人でも、公的な人でも、自死、という現実を前にすると、必然的に
「何故?」
と自らに問いかけると思う。そして、さらに
「何故それを(本人が)止めなかったのか」あるいは、
「(他の誰かが)止められなかったのか」
と問いはさらにすすむのだ。
そして自死を遂げた人が自分に近い人であればあるほど強く切実に、時間を戻したい、その行為を無かったことにしたい、その状況を否定したい想いを強く抱く。当然のことだ。
その想い自体を否定することは決してできない。
だが、本書でアメリーが読者にまず要求することは、その自死という行為の否定、という観点をまず離れることだった。
上記のような問いが出てくる理由は、おそらく、アメリーが指摘しているように、問う側が「生の論理」に依拠しているからに他ならない。
つまり「死」は闇であり、終結であり、否定であり、時には敗北である。
それに対して「生」は光であり、継続であり、肯定であり、希望である。
その観点からすれば、「自死」とは、もっとも深い闇であり、強引な終結であり、全面的な否定であり、自ら引き寄せた敗北といえるのかもしれない。
しかし、この本の中でアメリーが読者に求めていることは、このような「自死の否定」をまず否定することだった。
その「否定の否定」こそが、自死というものの本質を知ることであり、当事者の内面を、徹頭徹尾、想像することの始まりとした。
もちろん、アメリーは自死を礼賛しているわけでもなく、自死する人を英雄視しているわけではない。
ただ、その行為を否定し、「あってはならないこと」として目を背けることで、そこに至った人を否定することの不当を指摘しているのだ。
それでは、アメリーが捉えた自死の当事者の真実とは一体どのようなものなのだろうか。
アメリーの「自死」をめぐる考察において、まず最も根本的で答えを出すのが困難な問いかけは、「生」は「死」が自然にその肉体を凌駕するまでは、
いかなる状況であっても、はたして絶対的な価値に値するものであるのかどうか、という問いかけである。
この問いかけは非常に重い。
たしかに、不条理に命を落とさざるをえなかった人や重い病に苦しむ人や
その周りの人の想いからすれば、健康体でありながら自死を選ぶ人の行為は、受け入れ難いものがあると私も思う。
しかし、前述のアメリーの宣言の通り、主体を変えた「自死」という行為の評価は、ここでは考察の対象にはならない。
アメリー自身も、不条理で過酷で凄惨なあの戦争を、生き延びた側の人間だった。
そう、たしかに「生き延びた」側の人間として、アメリーは存在していた。
しかしそれまでの生の過酷さが、それ以降の生を支えるものではなく、むしろ苦痛の種となり、自らを蝕むものであるとしたら、その人は以後の人生をどのように「生き延びて」いったらよいのだろうか。
「生の側」に居る人は、様々なアドバイスをするだろう。
手を差し伸べてくれる人も、寄り添ってくれる人もいるだろう。
しかし、当事者として生きる人間の内面には、自分でありながら、容易に肯定し難い否定的な何かが存在し続けていて、それがその人の人間性や尊厳を損なう何かであるとしたらどうだろうか。
時代、宗教、人間観…その人を個人として支えている価値観や思想は、生まれ育った国や文化によって大きく異なり、自死という行為に対する感情や考え方も大きく異なる。
しかし、このアメリーの著作を読むと、そのようなカテゴライズされた死生観を越えた普遍的な問題として、いかに人が個人の在り方を自分以外の何かに強制され、それを己の魂に刻み込まれることを強いられる状況を耐え忍ばなければならなかったのか、ということを思い知らされる。
反ユダヤ主義の名のもとに行われた行為は、人の魂の深い部分を終わりなく損ない続けるとてつもない暴力なのだとあらためて思う。
アメリーは、そこから逃れる唯一の、能動的な、そして人間的な行為として「自死」を捉える他ない苦しみが存在することをこの本の全編で語っている。
その苦しみは、他者が容易に理解することはできないし、もちろん代わって背負うこともできない。
しかし──と、それでも私は考えてしまう。
それはアメリーが不可能とした行為なのかもしれないが、何か、何処かに、そこに「他者」が介在できる余地はないのだろうか。
アメリーが語った「矛盾をはらんだ深淵」は、人が個としてたった一人でのぞき込む以外にできることは本当にないのだろうか。
アメリーはその可能性については、否定的だが、一つのすでに共有されている事実について、すべての読者に問題提起をしている。
それは、死というものは、誰一人免れ得ない、いつかは誰もが等しく直面する事実だということだ。
たしかに、多くの人にとっては死とは、明日に迫った終わりではなく、「もっと先のいつか」のことだ。
しかし、その日はいつか必ずおとずれる。
誰もがいつかは不条理な深淵に身をさらす日は確実に来るのだ。
考えてみれば、自死以外の死にも、当事者にとっては悲劇的にも、不条理でもありうるということは、想像に難くない。
そうして直面した死、不条理にも内包せざるを得ない、否定したくても否定できない、自分でありながら自らの力や願望の及ばない非自己としての死を感じることでしか、人は他者の死に主体的に介在することはできない、ということだ。
最終的に、自身の死、あるいは近しい人の死と向き合うことによってしか、自死する人の「踏み切る前の状態」をうかがい知る道は無い。
この本を読むことの、本当の恐ろしさは、このように自死とは無縁の多くの人が抱いている、
「生きてあることの何とすばらしいことよ」
という輝かしく肯定される生のすばらしさが、それを受けたときからすでに死を内包しているという事実を、否応なしに思い出させることにあるのかもしれない。
そのことをアメリーは自身の死──自死を選ぶ人間の心の内を出来得る限り正確に語ることで個々人が直面する自らの死について、読者の喉元につきつけている。
人は「固くうちに閉じこもって誰であろうとほかの人の立ち入ることを断固として拒否する」自我という孤絶の中で究極まで耐えるしか、あるいは「自死」という行為によって、死に対して主体的に働きかけるしか道はないのだろうか。
ここで再び前述の問いかけを試みる。
個人の死に他者の介在する余地はないのか。
その一つは、アメリーが鋭く指摘しているように、自らの死、そして自らと深く結びついた人の死と向き合うときに否応なくおとずれる。
人はたとえ望まなくても、すでに死を共有し、死のもとに平等に生かされているのだ。
しかし、そのような事実としての死の共有から一歩すすんだところへと、本書は読者を導いているように私には思われる。
それは何よりこの本を、アメリーが自身を切り刻むようにして書き残した言葉こそが、国や時代を越えて、他者の痛みを自身の痛みとして受け取る余地を切り開くものだという確信だ。
生も死も、その人だけの閉ざされたものではなく、共に時を過ごした人と共有されるものであり、そして言葉によって、場所も時間も超えて、繋がり続けるものではないだろうか。
ただ、それを希望、と名づけることは安易すぎるのかもしれないが…。
この本を彼が書いた行為のもつ意味は、彼の言葉を読む他者──それは同時代の人というより、後世の、まだ存在していな人も含めた他者だ──に、彼が生きたことの真実を伝え続けることで、孤絶に閉ざされた自我が、他者に共有されうる可能性を、たとえ無意識ではあったにしても、求めることだったのではないだろうか。
言葉として残すということは、そういうことだと思う。
アメリーは意識的には「他者」の介在を期待せず、自我の外に、自らが生を選ぶに値する信頼を持てなかったが、その人がそんな言葉を残したという事実こそ、かすかな希望なのではないだろうか。
では、アメリーがかすかに抱いた希望にどう応えるのか。
それは、彼が残した言葉に対して、今生きている私の言葉を紡ぎ続けるしかないのだと思う。
たとえそれが無意味の淵に深く沈むものであっても、読み続け、語り続ける。
そうすることで、人は自我という閉ざされた部屋のドアを開けることができるのではないだろうか。