
★『自分ひとりの部屋』ヴァージニア・ウルフ
いつか生まれる「シェイクスピアの妹」のために──百年前に書かれた、
百年後の私たちのための本。
ヴァージニア・ウルフというと、私の読書経験の中では、かなり難解な作家(もちろん日本語訳で読んだのだが)というイメージだ。
最初に読んだのが(最後まで読んだかどうかは不明)『波』だったのもいけなかったのだろう。
今回読んだこの『自分ひとりの部屋』は、冒頭に「エッセイ」と書かれているが、日本語の語感でいう「エッセイ」とは、根本的に異なるジャンルのように、実際に読んでみて思う。

日本文学で「エッセイ」(随筆あるいは随想)というと、軽い読み物のような印象だが、ウルフのこの文章はエッセイというより「評論」、しかも極めて重要なテーマについて書かれた文芸評論であり、同時に、未来を生きる女性たちへの渾身のエールだと感じた。
日本語訳にもよるのだろうが、語り口は「ですます」調で、一見柔らかく感じるが、全文を通じて感じられるのは、ウルフ自身の心の中で沸き起こっている熱い感情だ。
そしてその熱い感情とは裏腹に、著者はそれを何とかコントロールし、より的確に、より鋭く、自身の掴んだ本質を明確に語ろうと、かなりの努力と工夫をしているように思う。
時折抑えきれずに、鋭すぎる言葉になったり、皮肉を込めた痛烈な婉曲表現になったりしながらも、できるだけフェアな表現を心がけている。
また、一つのテーマについての論究という意味では「論文」だが、架空の語り手を設定したり、(モデルはあったとしても)架空の作品の分析を通じて小説論を展開したり、とかなり自由な設定と構成によって、自身の文学論を展開していることも、この「評論」の特徴といえる。
それはまるで小説のように、一つの意図的に構築された世界観を呈示している。
架空の事柄として語りながら、事実の積み重ね以上のリアリティを、読者に感じさせることに成功していると思う。
この点においても、事実と史実によってのみ論理を積み上げていく、従来の一般的な「評論」に対する、ウルフならではの挑戦が見られる。
そしてこのような形式をとることで、事実として検証可能な形で文学史に残っている女性たちの言葉の裏で、むしろそこで語られなかった想いや感情、あるいは達成できなかった文学的な渇望をより明確に表現し、読者にリアルにイメージさせようとしたのではないだろうか。
こうしてウルフがそれほどまでに、心を傾け、自身の思考力と筆力を最大限に働かせて表現したテーマ、それは「女性と文学」──文学史(ここでは主にウルフの故国イギリス文学史)のなかで、如何に女性が(特に文学的な才能に恵まれた女性が)、彼女の才能を十分発揮しないまま、歴史に名を刻むことなく忘れられていったのか、それ以前にその才能を不当に潰されてきたのか──ということだった。
このことについてウルフは、単なる愚痴や呪詛として語るのではなく、冷徹な事実を積み上げ、そこから得ることのできる事柄を多角的な視点から観ることで、その所以を語っている。
ときには、先人の女性作家の作品の時代的な限界やその欠点を辿ることもしながら…。
ウルフのこの試みは、よく言われるように、単にフェミニズム運動の論理的根拠として扱われるべきではなく、何より文学についての本質的な問題について切り込んだ成果として、まず評価されるべきだと思う。
本書は、ウルフ以前の女性が生み出した文学の社会的な限界を浮き彫りにすると同時に、その後の未来の女性文学にとっての展望を指し示す一つのたしかな指標となっているのだから。
ф ф ф
この評論の元となっているのは、著者が1928年10月に行ったケンブリッジ大学の女子カレッジで行われた二つの講演だ。
当時のウルフは46歳、すでにいくつかの代表作といわれる小説を発表し、作家としての地位も確立し、家庭生活にも恵まれていたようだ。
そのような立場で、ウルフは女性作家の来し方行く末について思いを巡らせている。
この評論は全部で六章に分けられている。
第一章では、まず女性作家(予備軍)の出現が何故困難だったか、その理由として、当時の女性が置かれた物理的な状況を指摘する。
わたしにできるのは、せいぜい一つのささやかな論点について、<女性が
小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない>
という意見を述べることだけです。
したがって、女性の本質とは、小説の本質とは、といった大きな問題には
答えられません。(本文p10)
おそらく国を問わず、多くの男性作家の文学論がすっとばしてきた、あるいは意識にさえ上らなかった問題を、ウルフは文学が成立するための本質的な問題として、第一に指摘する。
ウルフは作家になるための物理的な条件、つまり<個室とお金>が無いことは、女性にとって二つの大きな物理的ビハインドであったと指摘する。
一つは、居室に他者がいると執筆に集中できないということ、もう一つは、女性であるという理由で、家事や育児など、男性作家よりもあきらかに執筆以外のことに時間をとられてしまうということだ。
細切れな時間をかき集めるだけでは、名作を成すことは難しい。
加えて、自分が自由にできるお金がなければ、そのような場所も時間も、自身の自由に作ることはできない。
そしてこの女性に課せられたビハインドは、女性という性に本来的に存在する特質ではなく、社会のシステムによって課せられたものだと指摘する。
女性作家に与えられた物理的な枷、これが第一章で語られた問題提起だ。
続く第二章では、女性に課せられたそのビハインドの由来について、語り手は思いめぐらせ、様々な場所へ赴き、文献をリサーチする。
そして得た結論としては、家父長制、そして封建社会において、男性が自らの優位性を保つためには、女性を自分たちより劣った存在として位置付けることが必要だった、ということだ。
人生とは、男性にとっても女性にとっても──わたしはここで人混みを肩
で掻き分けながら道行く人びとを眺めました──努力を要する難しいも
の、絶えざる闘争です。
途方もない勇気と力が要ります。わたしたちは幻想を抱く生きものですか
ら、たぶん何にもまして自信が必要です。自信が持てないのであれば、わ
たしたちは揺りかごの赤ん坊に逆戻りなのです。
[自信という]この特質、あてどもないのにたいへん貴重なこの特質をささ
っと手に入れるにはどうしたらよいでしょう?
他人は自分より劣っていると考えればよいのです。
自分には生まれつき他人より抜きん出た何かがあると考えればよいので
す。(本文p62~63)
なるほど。女性の社会的地位の低さは、男性側の都合であり、それは不当なものだという指摘。
この指摘が正しいと仮定して──ではどうする?──この答えとして、ウルフはこの「エッセイ」の語り手に、自身が伯母から遺産を受け取ったことで、「無駄な努力と骨折りを実際しなくてよくなっただけでなく、憎しみと恨めしさが消滅した」と語らせている。
これはおそらくウルフ自身の正直な実感であり、当時想定されるほとんど唯一の解決策といえたのかもしれない。
それだけ「幸運」に恵まれでもしない限り、女性が文学に集中することは不可能だったというわけだ。
しかしそれがたとえ当時の現実的な唯一の解決策であったとしても、この「女性と文学」、あるいは「貧困と文学」というテーマにおいて、これが本質的な解決ではないと感じるのは、私が後世の人間だからこそ言えることなのだろう。
おそらくウルフ自身もそれは十分理解していたことだと思う。
ウルフは現実について述べているだけで、それが理想だとは言っていない。
ともかくもウルフは、システムとして揺るがせることのできない当時の社会構造──男強女弱の世の中で女性が対等になるには、どうやってもある程度の物理的なパワーと社会的なシステムの変革が必要だと言いたかったのだと思う。
そして続く第三章ではまず、男性作家の作品の中での女性像と、現実の女性のギャップが語られる。
作品の中の女性像は、「第一級の要人」であり、その精神性においても「文学においてもっとも高揚した言葉、もっとも深淵な思想が女性の唇から語られている」のに、現実の女性は「読み書きもままならず、夫の所有物となっていた」。
それは男性中心の社会が、女性の役割を男性の都合のよいように意図的に形成してきた結果ではあるが、長い間のそのシステムと習慣によって、女性自らも個としての自分を「ヴェールに包んで隠しておこう」とする匿名性に「取り憑かれている」というウルフの指摘は、鋭いと思う。
女性は物理的に搾取されていただけでなく、精神的な部分においても、自由な表現を試みる女性に対する「あからさまな敵意」と「無関心」に耐えなければならないという、苦境を味わわされていた。
そしてそのことは女性自身の創作に向かう精神そのものをも停滞させていたという。
そしてウルフの考察が、さらにその先に進んでいることに、個人的に心を揺り動かされた。
ここまでの指摘で終わっていたら、ただの、歴史の中で女性が如何に搾取されてきたかということを辿っただけの呪詛を含んだ社会批評に終わっていと思う。
だが、ウルフの思索はさらに深いところまで降りていく。
ウルフの文学観は、イギリスにおいてはシェイクスピアを一つの高みとして
位置づける文学観であり、その是非については(私自身がシェイクスピアをほとんどきちんと読んでいないので)不明といわざるを得ないが、その根拠について語ったウルフの見方には納得させられるものがあった。
ウルフはシェイクスピアの作品には、彼個人の「悪意や怨恨や反感がどこにもみあたらない」という。
作者のことを想起させるような「発見」で妨げられることがありません。
抗議をしたい、何かを説きたい、損傷を被ったと申し立てたい、恨みを晴
らしたい、自分の苦労や怒りについて世間に知ってもらいたい、などの願
望のすべてが、焼き尽くされ使い尽くされています。
だからこそ詩情に淀みなく、妨げられることもなく、彼から流れ出ていま
す。
作品をまるごと表現できたひとがもしいたとしたら、それはシェイクスピ
アそのひとです。(本文p99~100)
続く第四章でも、そのように創造のための精神状態に置かれない女性の作家が、如何に後世の人が読むに足る作品を成し得ないかということが語られる。
文学は作家の個人的な負債(それはウルフが指摘しているように、物理的な不足によるものでもあるし、精神的な搾取の結果である場合もある)を取り返すためのカタルシスとしての役割に留まる限り、広く長く支持される芸術であり続けることは困難だ、ということなのだろう。
女性作家にとってなんと厳しい、しかし本質を突いた指摘だろうか…。
あそこには憤怒が書かれていると気づくと、この女性が才能をまるごとそ
っくり表現することはないだろうとわかってくる。
彼女の書く本には、いつも変型とねじれがあるだろう。
冷静に書くべきときに憤怒に駆られながら書くだろう。
賢明な書き方をすべきときに愚かな書き方をしてしまうだろう。
登場人物について書くべきときに自分のことを書くだろう。
彼女は自分の運命と闘っている。押さえつけられ妨げられた結果、彼女が
若くして死んだとしても、他にどうにかしようがあっただろうか?
(本文p123)
社会の問題を深く自身の問題として捉え、自身の言葉によってその現実について表現することで、その作品が、同じような想いを経験している人に届き共感を得ることは、文学の一定の役割を果しているといえるのかもしれない。
ただ、ウルフはそのような動機と内容によって言葉が記されたとしてもそれが個人的な生の感情の吐露に終わっているとしたら、その作品はまだ文学としては未だ過渡期のものと見ているようだ。
小説家にとっての<誠実>という言葉でわたしが意味しているのは、これ
が真実だと読者に確信させる力のことです。
そう、こういうことがあるなんて考えたこともなかった、ひとがこんなふ
うに行動するなんて知らなかった、でもあなたがそういうこともあると説
得してくれたから、こういうことはあるんですね──とひとは感じます。(本文p127)
このようにウルフが表現する作品世界を女性が言葉によって実現するためには、「呪詛」や「憎しみ」という負の感情の表明にすぎない文学を越えていく必要があるということだろう。
そして女性作家が、彼女自身でさえも未だ現実社会では経験していない何か新しい価値のあるものの存在を、いかに「真実だと読者に確信させる」ことができるのか、男性とは明らかに違っている「女性にとって価値があるもの」について、女性作家自身がリアリティをもって作品世界を創造するために何が必要なのか、という難題へとウルフの思考はすすんでいく。
第五章でウルフは、実際に当時の女性作家の作品を取り上げて、その作品世界が、文字通り「小説──ノヴェル=新奇なもの」…次世代の女性が生み出すべき新しい文学であるかどうかを分析している。
そしてその分析の結果は、「古い階級意識の足枷」からまだ抜け切れているとはいえず、必ずしもウルフを満足させるものではなかったようだ。
彼女は女性として書きながら、女性であることを忘れた女性として書いて
います。
そのため彼女の頁は性別が忘れられているときにだけ出現する、あの面白
い性的特徴に満ちています。これはすべて結構です。
しかし、いかに豊かな感覚と研ぎ澄まされた知覚を持っていたとしても、
はかなく消えてしまうもの、個人的なものから、破壊されずに長く残るよ
うな建築物を造り上げねば、すべては無駄になってしまいます。
(本文p162)
女性が「反対勢力」としての男性を非難することなく、また、自らの女性性を否定することなく、そして個人的な感情に囚われることなく、「破壊されずに長く残るような建築物」、つまり長く読み継がれるような腐朽の名作といえる作品を生み出すためには、まだかなりの時間と鍛錬が必要だという。
そして最終章、第六章で、ウルフの分析と思考はさらに具体的になり、本質に迫っているように思う。
だれであれ自分の性別のことを考えながらものを書くのは致命的である。
ただ純粋に男であるとか、女であるのは致命的である。
女性であって男らしいか、男性であって女らしくなくてはならない。
女性が何らかの不満を少しでも強調したり、たとえ正当なことであっても
何か言い分を申し立てたり、何らかの形で女性であることを意識して語る
のは致命的である。
<致命的>というのは比喩ではありません──明らかな偏向を持って書か
れたものは滅びる運命にあります。それは肥沃になっていきません。
一日か二日は眩しく光って注目を集め、力強い傑作のように見えるかもし
れませんが、夜になると萎んでしまいます。
他の人びとの心の中で成長していきません。(本文p179~180)
この強い、破壊的なまでの断言は、強く胸にささる。
ウルフの文学に対する、物凄い使命感、世界を再構築する力を持つ言葉に対する揺るぎない信頼感。
個人も性別も時代も越えて生き続けるべき言葉への憧れ。
もし自由を習慣とし、考えをそのまま書き表わす勇気を持つことができた
なら──。
もし共通の居室からしばしば逃げ出して、人間をつねに他人との関係にお
いてではなく<現実>との関連において眺め、空や木々それじたいをも眺
めることができたなら──。(中略)
わたしたちは男女の世界だけでなく<現実>世界とも関わりを持っている
ということを事実として受け入れるのなら──。(本文p196)
男女に限らず、人間が他者との関係のなかに、人生の最も重要な何かを求めている限り、それも文学作品のテーマとして適当でないとは思わないが、ウルフが指摘するように、それが両人の閉じた関係性だけを問題にしている限り、人間の本質的な問題として容易に普遍化し難いテーマであり、作家の個人的な経験の域を出ない可能性のほうが高いのかもしれない。
そして、そういう作品は、やはり一時的な興味の対象として時とともにその役割を終える運命にあるのだろう。
しかしウルフのいうように、女性であることを含めてその人にしか見えていない真実を、<現実>世界との関係のなかで描くことは、現代風にいえば、どのような性自認の、どのような形の文学形式をとるにしても、かなり難しい試みのように思う。
さらに、ウルフは指摘する。
男性でも、頭脳の女の部分が働いていなくてはなりません。
(中略)男の部分しかない精神ではたぶん創造はできず、女の部分しかな
い精神でも不可能なのです。(中略)
両性具有の精神は共鳴しやすく多孔質である。
何に妨げられることもなく感情を伝達する。
無理をしなくても創造的で、白熱していて未分割である。
実際、シェイクスピアの精神は両性具有的で、男性であって女らしい精神
の一類型でした。(本文p170~171)
実際、シェイクスピアの作品が文学作品として、ウルフが指摘している点において評価できるのか、また彼の作品が、2020年代のイギリス、あるいは日本で読まれるべき文学であるのかどうかの評価は別にして、ウルフのこの指摘は、文学、とくに小説という形式にとって、今日の日本の文学、特に女性作家の作品にとっても、とても重要な指摘のように思う。
すぐれた文学のもつ構造的な秘密は、その書かれる視点においても、個人的な感情からも、男性、女性という狭義の意味での性差による立場の違いという限定を越えたところにある何かを表現するもの──ウルフが求めた文学の在り方は、時代や空間を越えた新しい世界観の構築にあったのではないかと想像される。
しかしそれが困難な仕事であることを、何よりウルフ自身が作家として、自らの創作を通じて痛いほど理解していたのではないだろうか。
それでも──と最後にウルフは語る。
これは一時代、一個人の仕事ではないのだと。
これは決して彼女の絶望から出た言葉ではなく、むしろ逆に、希望そのものを表わした言葉だと感じた。
傑作というのは、それのみで、孤独の中で誕生するわけではありません。
何年もかけてみんなで考えた結果、人びとが一体となって考えた結果とし
て誕生します。
ゆえに一つの声の背後には集団の経験があります。(本文p115~116)
ウルフのこの言葉の中に、私は本当の文学というものの在り方をイメージすることができた。
それは個人を越えて、時代を越えて、言葉という共通の経験によって受け継がれ、成長していく精神的な営みであり、歴史に残る固有の名は、実は、個人の意識を越えた、多くの名も無き人びとの<現実>なのだと。
歴史の淵に沈んだ名も無き詩人、「シェイクスピアの妹」は、何度でも新しい肉体をまとい、「知られざる先輩たちの生から自分の生を引き出して」蘇る。
わたしたちの側の努力がなかったら、彼女が蘇ったときに生きて詩が書け
ると思えるようにしておこうという決意がなかったら、彼女は出現でき
ず、期待は叶いません。
でも、彼女のためにわたしたちが仕事をすれば、彼女はきっと来るでしょ
う。
だからこそ貧困の中でだれにも顧みられずに仕事をしたとしても、そこに
はやりがいがある──と、わたしは断言するのです。(本文p197)
その後、彼女が夢見ていた女性作家の手による「長く残るような建築物」は
生まれたのだろうか。
その答えを見つけるのはウルフではなく、私たち自身なのだろう。
彼女の目指した文学の姿をイメージしながら、女性作家の作品を探し、時間を超えて受け継がれるその精神性を見つめていきたい。
彼女が百年前に、百年後の私たちのためにこの本を残してくれたように。