聖なる無関心
誰でも何かに興味を持っています。興味の対象は人によってさまざまですが、何かに興味を持っており、その興味の対象から、何らかの影響を受けています。
まったく興味のないことから影響を受けることはありません。
人や出来事から苦しみを被るのは、そこに何らかの私たちの興味があるからです。
興味は個としての「私」の属性であるので「私」が興味を手放すことはできません。
面白いことに、興味があるところには必ず苦しみが存在するのです。
天国に苦しみが存在し得ないのは、興味を持つことができる個としての「私」が存在しないからです。
そうだとすれば、私たちはこの世界で苦しみから解放されることは不可能だということになるのでしょうか。
「聖なる無関心」という言葉があります。
私たちが興味から解放された状態を表す言葉です。
あらゆるものを興味の対象としないので、それから苦しみを被ることがありません。
これは、自分のあらゆる思考に対しても無関心であるということです。思考と苦しみは強く結ばれているからです。
「聖なる無関心」この状態が私たちを苦しみから解放します。これは純粋な喜びに心が開かれている状態です。何かに心が囚われていないからです。
ここに、自分自身に対する純粋な愛を見出すことができます。生きとし生けるものに対する無条件の愛を見出す可能性が現れます。
その愛が自分をはじめ、あらゆる人に実現されることになっていることが静かに信じられるようになります。
「聖なる無関心」の中に過ごされる時間は贖われた時間と言えます。時間が優しくなるのです。