飛行機にて、記憶
そのスニーカーを履いて力一杯走ると、空に駆け上がっていけるという触れ込みだった。
実を言えば、制服の重たくて長いスカートを翻しながら学校の廊下を走っている時もこのまま翔べるはずだと思っていたので、脚力には自信があった。
バスケットシューズのようなゴツゴツとした見た目をしているにも関わらず、存在していないかのように軽いそのスニーカーを買ったのは、通学路の途中にある洋品店だった。晴れている日でもなんとなく薄暗い店内がショーウィンドウ越しに見えたが、店員や客が出入りしているのは見たことがなかった。ショーウィンドウに展示されていた洋服からして、恐らく母親から祖母ぐらいまでの年齢の女性が客層だったのだろう。そのショーウィンドウに映る自分の姿を見ては寝癖に気がつくのが常だった。
そんな店の軒先にある日突然、「空を駆けることが出来ます」というポップと共にそのスニーカーは現れた。
飴色で三本脚の椅子に載せられた青いスニーカーには、一刻も早くおやつにありつくため学校から家めがけて走る子どもの視界の端に紛れ込むだけで、一旦通り過ぎた道を引き返させるような引力があった。ショーウィンドウの値札と同じ筆跡で書かれた売り文句の真偽を疑うことはなかった。何故なら空に駆け上がる練習は毎日のように学校の廊下で行っていたし、そのスニーカーは真夏の空のような色をしていたからだ。
いつも履いているスニーカーよりはずっと高価だったが、貯金箱をひっくり返せば買えないこともないと思った。一目散に家から貯金箱を取ってきた。
貯金箱と青いスニーカーを抱えて初めて入った洋品店の店内は埃と整髪剤と胃薬のにおいがした。所狭しと並べられた洋服はジャングルみたいだった。やはり客はおらず、置き物のように動かないお婆さんだけがカウンターの奥に腰掛けていた。
これください、とカウンターにスニーカーを置き、貯金箱をひっくり返すと、なんとか足りるだけの額があった。
お婆さんはこんなに早く売れるなんてねえと言った。いや、何も言わなかったかもしれない。スニーカーがそれと同じ色の箱に丁重に納められる。渡された紙袋には店名も何も書かれていなかった。あの洋品店の名前は未だに知らない。
翌日は土曜日だった。
窓の外を見ると雨が降っていた。新しいスニーカーを下ろすのに絶好のお天気とは言い難かった。それでも、そのスニーカーを履いてみない訳にはいかなかった。なにしろ空を駆けることが出来るスニーカーなのだ。雲の上まで走っていければ雨は降っていないだろう。靴紐を通して、三和土にそっと下ろした。
そのスニーカーに足を入れた瞬間、裸足になった気がした。
傘も持たずに玄関を飛び出した。
いつも学校の廊下でやるように走っているはずなのに、足が地面を掴む感覚は全くなかった。水たまりがたくさん出来ていたのに、水しぶきが上がることもなかった。
つまり空を駆けていた。ぐんぐんと身体が持ち上がっていく。雨に濡れていることすら忘れてしまいそうだった。いつかこんな日が来ると思っていた、という言葉が脳裏を通り過ぎていった。
雲の上にたどり着くと、そこにあったのはスニーカーと同じ色の世界だった。
そうか、自分はこのスニーカーをここに連れてくるために毎日毎日学校の廊下を走っていたんだ、と悟った。