天啓
ポストを開けると目があった。
この場合の「あった」は、「合った」であり、「在った」でもある。
仕事を終え、地下鉄に乗り、自宅マンションに到着し、ポストを開けた。オートロック式のマンションに設置されている、壁一枚を挟んでポストの差込口だけがエントランスの外側にあるタイプの集合ポストだ。自分の部屋のポストは、ちょうど目と同じ高さにある。
何百と繰り返してきたこの日々に疲れて、もしくは飽きが来て、幻覚を見ているのかもしれない。いや、その前に単なる不審者の可能性の方が高い。
エントランスを出て、ポストの差込口に向かう。誰かが立っていることを願っているのか、誰もいないことを願っているのか、自分でもよくわからなかった。
メールコーナーに設置されたセンサーが反応して、パッと照明がつく。つまりそこには自分以外には誰もいなかった。
自分の部屋のポストを外側から覗き込んでみたが、中に深く手を突っ込めないようにプラスチックのスダレのようなものがついているだけで、特に異変はなく、もちろん目もない。
どういうことだろうかと首を捻りつつもう一度エントランスの内側からポストを開けてみることにした。
するとそこにはまだ目があった。
今度はじっくりその目を観察してみる。化粧をしていないこと、目の周りの肌の質感からして、男性のようだ。瞬きをしないので、目は乾かないんだろうかと心配になる。瞳の色は湿った黒、といったところだろうか。顔全体で見た時の比率はわからないが、結構大きい目だ、という印象がある。睫毛の存在感はあまりない。
郵便物を取り出しながら、「こんばんは」と声を掛けてみた。
目は微動だにしなかった。
いつまでもにらめっこをしている訳にはいかない。なにせ会社員なものだから、明日も朝から仕事だ。
ポストを閉じ、自分の部屋に向かい、いつものように食事と睡眠を摂り、朝を迎えた。目のことは頭の片隅にあったが、朝に強い人間ではないため、常に通勤はギリギリになってしまう。ポストを覗く時間はなかった。
ポストを開けると、目があった。
この場合の「あった」は、「在った」である。今日の目は、こちらから見て右に視線をやっていた。
今日は初めにメールコーナーに誰もいないことを確認してからエントランス内に入ったので、もう一度外に出る必要はない。
郵便物はなかったが、チラシが何枚か入っていたので宅配ピザのチラシだけ持ち帰ることにする。「こんばんは」と声を掛けたが、やはり返事はなかった。
こうして僕と目との日々は始まり、何年も続いた。
目は毎日ポストの向こう側にいて、右を見たり左を見たり時には白目を剥いたりしていた。宅配専門の寿司屋のチラシが入っている時は左を見ていることが多い、なんて法則を見つけたりもした。
ある日はじめて目に「こんばんは」ではなく「あなたは誰ですか」と尋ねてみた。
十数年勤めた会社を解雇され、三年付き合った恋人に別れを切り出された。そんな日でもポストを開けると目はあった。何年も続けていた儀式を壊した理由はそんなものだ。
はじめて自己について問われた目は、これまたはじめて瞬きをした。
暗転。
僕は、僕の顔を見ていた。
そうか、今日からは僕が目だ。