マンホール
今日は空が青かったので、マンホールを開けることにした。
クエスチョンマークのような形をしている鉄の棒をマンホールに引っ掛けて持ち上げて、各住宅から排出された汚水が集まる太い下水管を覗き込む。汲み取り便所に腐った台所を混ぜたような臭いがむわっと鼻の中にまとわりついた。汲み取り便所の臭いが想像出来るのって俺ぐらいの年代が最後じゃなかろうか。生まれた時からウォッシュレットが付いていて冬は便座が温かい水洗トイレしか知らない我が息子の顔を思い出す。
簡易的な梯子の先は真っ暗、もとい真っ黒だ。蓋を開ける前から聴こえていたざあざあという水音がますます大きくなる。
真っ暗な穴の中に顔だけが見えた。
あれは、隣の家のおばさん。いつも夕方になると玄関先の階段に腰掛けている。会社からの帰り道にふと視線を感じて振り向くと、おばさんがこちらを見ているので会釈をする。なにか既視感があるなと考えてみたら、おばさんは奈良美智が描くおかっぱ頭の女の子に似ている。旦那さんと2人暮らしのようで、その背後からはプロ野球中継の歓声だけが響いてくる。
その奈良美智風の顔が流れていった。空が青いからだ。おばさんはついにトイレに飛び込んでしまったのだろう。わかる。そんな日もあるだろう。
次に流れていったのは、毎朝同じ電車同じ車両に乗り合わせるOL風の女性。30代そこそこといったところだろうか。自分の職場にいる事務職の女性と似た雰囲気の格好をしている。オフィスカジュアルというやつだろう。いつもスマホをいじるでもなく居眠りをするでもなく窓の外をじっと見ているのでなんとなく目につくのだ。
その事務職OLの顔も流れていった。空が青いからだ。ついお風呂の排水口に頭を突っ込んだのだろう。わかる。そんな日もあるだろう。
次に流れていったのは、さて、誰だろう。知らない顔だ。いや、どこかで見たことがある。
あれは。そうだ。中学校の部活動で野球を教わった先生だ。
なぜだ。先生には、ここを流れていく理由なんて権利なんてないだろう。俺を理由もなく部員の前で執拗に怒鳴りつけては平手打ちを喰らわせてきたあいつには。あいつは俺の人生に関係ない。あいつの顔は見たくないんだよ。
空が青いから?先生も空が青いから俺をぶったんですか。
わかる。俺も今日、息子を殴ってしまいました。