他人
2.
「人間嫌いなの?ヒサギさんは」
職場でよく話す、ヒサギより一回り歳上で営業のミサキはヒサギに週末の予定を尋ね、ビジネスホテルに一泊して図書館に行きます、と答えたヒサギに対してそう言った。新型のウイルスによる感染症が流行するよりも何年か前のことである。
ヒサギはその時の会話を思い出しながら、初めて歩く町の空気を吸って吐く。
数日前に計画した旅は、難なく決行出来た。車で3時間ほど行ったところに感染症の流行が発表されていない町があったからだ。ネットからホテルを予約するのは随分久しぶりのことのように思えた。
朝7時に家を出発し、10時過ぎには目的地に着いて、宿泊予定であるホテルの駐車場に車を停めさせてもらった。あまり人気のない商店街の中に建っているホテルだった。シャッターが降りている店と営業している店が半々といったところのアーケード街を一周して、蕎麦屋で天丼を食べた。甘めのタレと、キリッとした塩気の味噌汁と漬物が対照的で中々美味しかった。
「いえ、むしろ好きな方だと思いますよ、俺は。人と話すの好きですし、旅先で歩くのも人の気配があるところですし」
「でもひとりなんでしょ、ヒサギさんの旅っていうのは」
「それはそうですけど。そういや、他人と旅行したのって修学旅行ぐらいかもしれません」
「えっそれは結構珍しいんじゃない?卒業旅行とか彼女と旅行とか行かなかったの?」
給湯室でコーヒーを飲みながら話していたんだっけか。
自動販売機に貼られた宇宙人(という設定の外国人俳優)のポスターが目について、ヒサギは足を止め、缶コーヒーを買う。ブラックが好きだ。学生時代は背伸びしても微糖が精一杯だったが、今は舌に砂糖が残って粘つく感触が嫌で、どこで飲むにしても砂糖は入れない。コーヒーに砂糖を入れなくなった時期は、ビールが美味しくなった時期と前後してるな、とふと過ぎた年月を思う。飲み終わった缶コーヒーを自動販売機の横に置かれたゴミ箱に捨て、再び歩き出す。
「高校の時は確か卒業旅行っていう文化自体縁がなかったし、大学の時は東日本大震災と重なっちゃったんですよね。ちょうど3月の下旬くらいに予定してたから、まあキャンセルして。今まで付き合った人は旅行とかあんまり興味ない人ばっかりでしたね、そういえば」
「ほー、なるほど。じゃあ恋人がいる時もヒサギさんは週末になるとひとりで旅に出てたんだ?」
「毎週ではないですけどね、さすがに。2、3ヶ月に一度くらいかなあ」
「私だったらついてっちゃうわね。ひとりになりたいってなに?!あんたいっつもひとりでいるようなカオしてんじゃないの!なんて言って」
「ミサキさんはそんな感じですよね、今めちゃめちゃ想像出来ましたもん」
その時想像したミサキの表情を思い出して、ヒサギは込み上げてくる笑いを堪えきれなくなった。結婚して10年程になるらしいミサキの夫は無口な人らしく、その夫の背中をばしんと叩くミサキを想像したのだ。ひとりで声もなく笑う。
商店街を抜けてから20分ほど歩くうちに、昭和の空気を残した民家の並ぶ、昼下がりの住宅街に入っていた。もしも思考に実体があるとしたら、思考が空気に流れ出して拡散していくような心地になる。
ヒサギは住人の生活が道路にはみ出しているような住宅街が好きだ。錆びてカゴやハンドルの歪んだ自転車が玄関先に無造作に投げ出されていたり、手入れがされているとは言い難い伸び放題枯れ放題の鉢植えがやたらめったら積み上げられていたり。さっき見かけた、草花の生い茂るミニ植物園みたいになっている、本来であればペットボトルや瓶入りの飲み物を冷やす為に店先に置かれているような冷蔵ショーケースも素敵だった。
ヒサギにとっての旅とは、自分の知らない誰かが、自分とは全く関係のない土地で暮らしていることを確認する作業というのが近かった。自分以外の人間が、自分とは全く別の意識を持って生きている。これは、自分の視界に入らない場所でも事実なのかどうかを知りたい。なので出来れば一軒一軒チャイムを鳴らし握手して回りたいぐらいなのだが、流石に楽しさよりも労力が上回りそうなのでやらない。
「いや、でもほんとに、ひとりになりたい訳ではないんですよ」
そう言ったところで声のやたら大きい所長がヒサギを呼んでいるのが聴こえてきたので、ミサキとの会話は終わった。
結果としてひとりの旅にはなっているが、その根底にあるのは自分以外の人間に対する憧憬なのではないか、とヒサギは分析している。
そうだ、憧憬なのだ、とひとりで頷く。憧れ。手が届く必要はない。触れるなんて以ての外。そこに存在しているということだけで十分満たされる。ヒサギにとって他人とはそういうものだった。
こうして歩いているだけで満たされるのだからむしろ、ひとりである、孤独であると感じる機会は世間の平均よりも少ないのではないか、とヒサギは考えていた。
道路の真ん中に耳と手足の先だけ黒い白猫が座っている。じっとこちらを見つめていて、逃げる気配はない。姿勢を低くして静かに近づいていき、目の前にしゃがみ込むと、白猫はそら撫でるがいいとでも言うような目をしている。首輪はしていないが、人には慣れているようだ。そっと背中に触れると皮膚の下の骨を感じた。
スマホを取り出し、写真を撮る。異常に猫が好きな友人にその写真を送ったら、すぐに返信があって、「耳に切り込みが入ってるから地域猫かもね」と書いてある。改めて見ると、なるほど、耳が小さく三角形に欠けている。「そうか、知らなかった」と返した。
こういう瞬間にも、他人が自分とは全く別の意識を持つ人間である、と実感出来て、器に水が注がれたような気持ちになる。
他人が存在していることを確かめたくて旅をしているんですよ、と今度ミサキさんに言ってみようか。
ヒサギは怪訝な顔をしてコーヒーを差し出すミサキを想像しながらスマホをポケットに突っ込み、また歩き出した。