学校に行けなくなったので京都で修行することになった②
こちらの続き。
中学3年のときは生徒会長をしたり卓球部の部長をしたりと、周りが望む通りに振る舞わねばならない息苦しさを感じるようになっていた。
今思えば、見栄をはって弱い自分を隠していただけなのかもしれないけれど…
友人には「かいちょー」というあだ名が浸透し、自分が自分でないような気がして、いまいち楽しくない学校生活に変わってしまった。
1つ下の学年がヤンチャだったのもじわじわと精神を削る。
気が弱い性格なのに生徒会長なんてしていたものだから、荒れている後輩は正直嫌でしかなかった。
わたしの中学卒業から数年後に、古い校舎は新しく建て直されるわけだが、その数年後に教育実習で中学校を訪れる機会があった。
校長がわたしたち実習生に語った言葉は、荒れていた中学時代を過ごした過去の自分をあまりにも救ってくれなくて、わたしの心に悲しく響いた。
自分が中学生の時に新しい校舎で生活できていたなら、いじめもなく荒れている生徒もいなかったのでは…
なんて流石に大げさな考えではあるが。
話を中学時代に戻そう。
中3の秋、精神的に限界が来て学校を休みがちになってからは、生活がなおさら楽しくなくなった。
睡眠もあまりとれなくなった。
明確な1つの原因に、深夜近所に集まるようになった人の声やバイクの音がある。
この騒音について、親に相談するなりして対策すれば、眠りが浅くなることも学校を休みがちになることもなかったのでは?
とは思うが、当時は何もできなかったし、恒常的な睡眠不足が自分の心やからだに与える影響を甘く見ていた。
担任に苦しさを吐露してスクールカウンセラーとも話をすることになったが、カウンセラーから「軽い鬱ですね。」と言われたのが地味にショックだったらしく、カウンセリングを受けたからといって快方に向かうこともなかった。
その後は薬を飲みながら、心療内科に通いながら、
「この苦しみは自分の生まれもった性質のせいなのか」
「それとも一時的な鬱状態によるものなのか」
苦悩する毎日を過ごした。
これまで学校に適応していたはずなのに、一度学校を休み出すと平日5日間の学校生活に戻るのは困難なことだった。
自分に向けられる目線も言葉も気になって仕方がない。
なおさら挙動不審になって、周りからの好奇の目線が増え、いっそう周りの反応が気になってしまうという悪循環。
頭がうまく働かない上に、友だちともどうやって話したらいいかわからなくなり、人間関係もこじれてしまった。
いつ頃から教室に普段通りいられるようになったかは覚えていないが、授業内容が一段落してひたすらに受験対策の問題集を解くようになってから、以前と同じように教室で過ごせるようになったと認識している。
担任からの一声があったのか、同じ班の生徒が少し自分に気を遣ってくれている雰囲気は感じたが。
全てきれいに元通りになる、なんてことはなかった。
進学のことでノイローゼ気味になっていたものの、受験自体は自己推薦で早めに終わった。
不登校になる前の2年半ほどは、ちゃんと学校に通い成績も良かったおかげである。
今までとは比べ物にならないほどボロボロの結果だったテストは、時期的に受験の評点の対象ではなかったのも運が良かった。
当時は調理師に興味があったので、調理師免許がとれる学科を受けるかどうか悩んでいたものの、結局は進学校の普通科に落ち着いた。
変わらず心療内科には通っていたが、受験後や卒業式シーズンは比較的心穏やかに生活できていたと思う。
大きなストレスのもとがなくなって、沈んだ気分からは解放された。
近所に集まるバイクも、その頃には姿を見せなくなっていたのではないだろうか。
自分が悩みをため込んでしまう性格であることを中学時代に知れたのは良かったが、人間関係の悪化や楽しくない学校生活など、勉強代としては高すぎるほどだった。
不登校になってしまったのなら、長期になったとしても気持ちが整うまで休み、100%充電できてから再スタートをきるのが最適解だ。
わたしの場合、「学校に行かない!」とはっきり決められず、気持ちが重い状態で登校を続けていたのが良くなかった。
なんて、今ではそのように思えるが、中学生ではなかなかその判断はできないだろう。子どもが学校に行くというなら、親も無理に止めることはできないだろうし。
もう1つ中学の不登校時代における教訓を挙げるなら、もう母親を泣かせないという決意だろうか。
なかなかに長くなってしまったので、続きは次回に持ち越し、そのまま高校編に移りたい。
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