平屋の研究室と秋のコガネザクラ#9

僕が平屋の、菌ネットワーク研究室パラダイムシフトで研究員を務めることを両親に許可された二日後。

僕は祐樹さんが引っ越してきてから連日平屋の研究室に通っていた。

研究室の稼働時間は午前8時半から午後3時まで。夕飯時までに帰宅してくれるなら稼働時間を過ぎても研究室にいていいと父さんと母さんは認めてくれた。

「グループホームにいた頃に通ってた日中活動の施設をこの時間帯に利用してたんだ。まあ、ささやかなノスタルジィの反映さ」

祐樹さんも稼働時間を過ぎても研究室にいていいと認めてくれた。

ノスタルジィってなに?と僕が聞くと過去の思い出に関する懐かしさ、と祐樹さんがスマホで調べて教えてくれた。

今日も僕と祐樹さんは庭や近所でフィールドワークをしていた。

平屋の近所をぐるりと歩いて僕らは平屋の庭に戻ってきた。

ふと、庭のたんぽぽが気になった。

僕が指差したりしたわけじゃないけど、祐樹さんもそのたんぽぽの前で立ち止まった。

「ねえ、祐樹さん。このたんぽぽ何か言いたげ」

「んー?」

祐樹さんは目を細めてたんぽぽの気持ちを推しはかるように見つめた後で代弁してくれた。

「昨日オナニーしましたね?」

「き、昨日はしてない!」

僕はギョッとして声を荒げた。

「全然悪いことじゃありませんよ?」

祐樹さんがそう言ったのと、たんぽぽの方を交互に見て、僕はしばし呆然とした。

あ、昨日は、という言い方だと、もうやり方も知ってるし実践もしてると認めてしまったことになったのだ、と僕は気づいて、でも、悪いことじゃない、と言ってもらえたのだから、とそれ以上弁明しようとしなかった。

「このたんぽぽ、写真に撮って名前つけてやれよ」

祐樹さんが促してくれた。

「うん、そうする」

僕はスマホのカメラでそのたんぽぽを写真に収めた。

メモ帳を開き、撮ったばかりの写真を貼り付けて、その下に僕は、命名:安心感、と名前を記入した。

「安心感!って名付けた!」

「うん、いいな」

祐樹さんは楽しそうに笑った。

それから祐樹さんは少し曇らせた表情を作り、平屋の裏口、というか研究室の入り口の左側の壁についてる寝室のドアの方へ行き、「ちょっと待ってな」と言って中に入っていった。

祐樹さんはマイクを持って帰ってきた。

「マイク?これ、どうするの?」

「男の子は、声変わりしてしまう宿命だ」

祐樹さんは今度は研究室の中に入る。

僕も続いた。

スリッパの類はまだ無くて、祐樹さんは今日も裸足だ。

正方形で一本足のしゃれたテーブルに、暫定的にノートパソコンを置いてた祐樹さん。

そのテーブルの空いてるスペースに、祐樹さんは寝室から持ってきたマイクを乗せた。

「パソコンにつながるマイク?」

「ああ、蜜季の歌声、近いうちに録音しとこう」

「僕は何の歌を歌えばいい?」

僕は声を弾ませて言った。歌には少し、自信があるんだ、僕は。

「俺のオリジナル曲、覚えてみないか?」

「祐樹さん、曲作るの?」

「まあ、伸びた試しは無いけどな」

「うん!祐樹さんの曲!聴きたい!」

「いいぞ?」

祐樹さんはスマホを取り出して右手でスワイプしたりタップしたりした。

広告が5秒流れる。

そして、サー、という無音の後、祐樹さんの曲が始まった。

バンドサウンドで、心地いいのか、よくわからない旋律のギターの音を僕はよおく聴いていた。

ボーカルが流れ始める。

「祐樹さんの声っ」

幾分若い時期の祐樹さんの声がおかしくて僕は声をあげた。

「ふふ」

祐樹さんは照れたり恥ずかしがったりする様子もなく、僕がその曲を聴いてるのを見守っていた。

3番のサビが終わり、メインのフレーズのアウトロが流れて、ドラムが躍動的になり、メインフレーズの変形でその曲は終わった。

「へえー!」

「お?いい反応だな?」

「うん!こんな曲!聴いたことない!なんで伸びなかったの!?」

「全く新しいものは人の防御反応を呼び起こすもんだ」

「そうなのか…」

「蜜季とは出会って日は浅いが、俺の内面を全く知らない人に比べたら…肯定的な反応をしてくれるのも頷ける」

「もっと素直に喜びなよ!」

「うん、ありがとう。嬉しいよ、蜜季」

「他の曲は?」

「おいおい聴かせてくよ。そんなに多くはないんだ」

「ふうん。じゃあまずは今の曲覚える!ラインでリンク送って!」

「ああ」

リンクカードには『竜』と、曲のタイトルらしきものが表示されていた。

「竜っていうの?この曲」

「うん」

「どうやって作ったの?」

「俺は本職ベースだったんだけど、2018年かな?ちょっとだけジョブチェンジの為にギターを購入したんだ。その際作曲した」

「6年前だと、祐樹さんは31歳か」

「蜜季は6歳か7歳だな」

「ふーん。人っておもしろいねっ!いつ繋がるかわからない!」

「あっ待てよ?作曲したのは2018年だけど今聴かせたバージョンはその後のテイクのボーカルだ」

「他のバージョンもおいおい聴かせてね!」

「いいぜ?ギター一本で作ったデモなら今聴かせてやるよ」

「うん!要は原案!?」

「そんなとこ」

祐樹さんは親指でスマホを縦にスワイプして、竜のデモを聴かせてくれた。

今度は歪みのないギターの音だ。

「この、てれれーれーれれれーれれれーっ、ってフレーズは最初からあったんだね」

「ああ、こういうの聴いたことないな、ってそこを曲の核にしたんだ」

「ふうん」

最初に聞かせてもらったバージョンよりも、メロディが試行錯誤を繰り広げていた。

だけどやっぱりアウトロはメインフレーズの変形で終わった。

「音楽って面白い!」

「蜜季のスマホってそれ、iPhone?」

「うん!」

「ガレージバンドって入ってるだろ。曲作りたきゃ操作教えてやるよ、いずれ」

「ガレージバンド!そうか!僕も曲作れるんだ!?」

「スタートはできるだけゆっくり丁寧に。慌てることない。ゆっくりやってこう」

「そうだね!」

僕は落ち着いた後、自分で盛り上がっておいてなんだけど、その場に水を差した。

「でも、研究と関係あるかな?」

「室訓その一、逸脱を咎めない、だな」

「なるほど…」

「そうだ、儀式を今日まで忘れてた」

「儀式!なんだっけ!」

「室訓の唱和」

「やってみようよ!儀式!」

「いいぜ?いー!逸脱を咎めない!いくぞ?いー!」

『逸脱を咎めない!』

僕と祐樹さんは声を合わせた。

「あー!遊びながら研究、だ、あー!」

『遊びながら研究!』

「けー!欠落の尊重、平均を求めない!だ、けー!」

『欠落の尊重!平均を求めない!』

「はい儀式終了〜!!」

祐樹さんが終了を宣言したのに合わせて僕は「イエーイ!」と拍手した。

「これ気持ちいいね!祐樹さん!?」

「そうだな、毎朝やればテンションあげる習慣になりそうだ」

「まさしく儀式だなあ…」

なんだか祐樹さんの設計する全てが、僕の喜びのためにあるように、僕には感じられた。

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