平屋の研究室と秋のコガネザクラ#8
翌日の火曜日。僕は祐樹さんにライン通話の発信をする。
祐樹さんが応答してくれた。
「準備できたか?」
祐樹さんの声。
「うん、今から父さん母さんと向かうけど大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。中で待ってるから着いたらインターホン押してくれ」
「わかった。5分くらいで着くからね」
「ああ。切るぞ?」
「うん。じゃあ今から行くよ」
「はーい」
通話は終わった。
「大丈夫だって?」
今日は遅れて出社すると会社に連絡済みの父さんが僕に尋ねる。
「うん!行こう、父さん、母さん」
僕ら一家は玄関を出て平屋の研究室に向かった。
僕は、リラックスしていた。
昨日のことを思えば、もはや、研究員になれるかどうかは重要じゃない。
僕は吹っ切れて、なるようになれ!と心の中で意気込んでいた。
話し合いが終わった後、父さんは仕事に行くからスーツ姿。
母さんもバリっとした正装じゃないけど、普段着とは違う服を着ていた。
僕も一応中学校の制服を着ていた。
やがて平屋の前に僕ら一家は到着した。
父さんがインターホンを鳴らす。
祐樹さんがドアを開けて父さんと顔を合わせるなり「わざわざおいでいただきありがとうございます、どうぞ上がってください」とつつましく挨拶した。
父さんも「本日はよろしくお願いします」と挨拶を返す。
母さんは深く会釈をした。
祐樹さんは靴下を履いていた。
裸足だったら確かに僕はバツが悪かった。
「引っ越してきたばかりで椅子も無いんです、床でよければ座ってください」
祐樹さん、そんなんで大丈夫かよ!と僕は神妙にしてみせた。
父さんも母さんも特に違和感を覚えた様子でもなく祐樹さんが床に正座するのに合わせて腰を下ろして正座した。
僕も見習って正座する。
「では、はじめましょう。改めて本日はよろしくお願いします」
祐樹さんは礼をする。
僕ら一家も礼を返した。
「僕は面倒見るつもりで蜜季くんに研究員をやってほしいんではないんです。いずれ弘前大学にも求人を出すつもりなんですが、室長である僕と蜜季くんと応募してくれた大学生の三人で研究をしていきたいんです。」
「はい、その件は息子から伺いました」
父さんが返答する。
「蜜季くんは中1のわりにずいぶん分別がついてるようです。学校が息苦しく感じるのも無理はないと僕は思うんですよね。蜜季くんのご両親からしても、神妙に学校行ってない罪悪感を抱えて悩み続ける蜜季くんと暮らすより、生き生きと楽しくうちで研究に没頭する蜜季くんと暮らす方が、幸せなんじゃないか、と僕は考えてます」
「ええ…」
「はい…」
父さんと母さんの返事。
「学校に行くことが最善だとしたら、蜜季くんがうちの研究室の研究員をやることは次善の策です。でも体裁だけの最善策を取るより、蜜季くんの心の健康を願って今日まで不登校を見守ってこられたのではないかと僕は感じていました」
「なるほど…」
父さんは感じ入った様子だった。
僕は父さんと母さんの気持ちが祐樹さんによって言語化されていくのがむずがゆかった。
「三浦さんはここに引っ越してこられる前、どのような生活をなさっておられたのですか?」
母さんが質問する。
「グループホームで暮らしてました」
「どのような方々の住んでおられるところだったのですか?」
そこで父さんが割り込んだ。
「蜜季、ちょっと外に出てくれないか」
「うん…」
僕は立ち上がって平屋の玄関に向かい、靴を履いて外に出た。
僕はしゃがんでドアに耳を当てた。
「障害者のグループホームです」
祐樹さんがそう言ってるのが聞こえて僕は急いでドアから離れた。
なるほど、僕が耳にしてはいけなそうな話だ。
僕はとぼとぼと平屋の庭を歩く。
ふう、っと息を吐いた。
今は、エンブレムのことを考えてはいけない気がした。
僕は父さんと母さんだって、僕が学校行かないことで悩んでたことをようやく想像できるようになった自分を、少し悔いた。
おまけに、祐樹さんの方もなにがしかの障害を持ってたのかもしれないことを知って、僕は、心がいっぱいだった。
天気は良かった。風も心地いい。
自分が大人になるしかない。
僕は、無防備に甘えてた。
こんな僕のどこが分別がついてるというのか。
僕はいつものように歩き回ることさえできずに、地面を見つめていた。
蜜季、せめて、お空も見てね?
エンブレムの声が聞こえた。
僕は空を仰いだ。
勇壮な空。
話し合いが、終わらなければいい。
天国でも地獄でもない、この晴れの日の平屋の庭で、僕は今までの自分の愚かさを、永遠にしたかった。
ふと、平屋の中から笑い声が聞こえた。
どんな話をしてるんだろう。深刻な話は終わって、雑談モードに入ったのかな。
僕は小さな小さな三つ葉のドームの方に歩いた。
しゃがみこんで、三つ葉の葉、一枚一枚を見つめた。
また笑い声が聞こえる。
祐樹さんは、僕が思うより、大人ともうまくやれる人だったんだ。
僕は、さびしかった。
その時、平屋のドアが開いた。
父さんと母さん、そして、祐樹さんが履き物を穿いて出てくる。
僕は立ち上がって父さんを見つめた。
僕に近づいた父さんは僕を見つめて、少し目を潤ませていた。
「蜜季!祐樹さんのお世話になる代わりにちゃんと研究に貢献するんだぞ!」
父さんは僕の両肩をガシッとつかんでそう言い放った。
「え?」
「父さんと母さんは、祐樹さんのこと、信頼することにしたんだ!」
「僕、研究員やってもいいの?」
「そうだ!」
僕は母さんの方を見た。
母さんは僕を見つめて、そして頷いた。
僕は、嗚咽を上げて泣き出してしまった。
父さんが僕を抱擁する。
「何も心配するな。お前はここで楽しく毎日を過ごしてくれればいい」
僕は涙をこすって拭う。
僕が泣き止んだのを見て、祐樹さんが「よろしくな、三浦研究員!」と言ってくれた。
今度は、喜びがこみあげてくる。
どうその喜びを表現していいか、わからなかった。
「父さん、母さん」
僕は呼びかけた。
「今日までありがとう」
僕は、父さんと母さんの手を握ってそう言った。
父さんは胸の熱さを誤魔化すように「じゃあ父さん!仕事行ってくるな!」と言い放ち、平屋の庭を出ていった。
母さんは「今日のところは失礼します」と嬉しそうに言って父さんを追いかけた。
母さんが父さんに追いついたところで二人は腕を組んで僕の家の方向へ歩いて行った。
僕は庭に残った祐樹さんと顔を見合わせた。
「ひとまず一件落着だ」
祐樹さんが言ったのを聞いて僕は安堵した。
「祐樹さんって、クッキーと仲いいのに、大人とも対等に渡り合えるんだね」
「だてに37歳じゃねえよ」
祐樹さんは苦笑いした。
「制服、着替えてくるか?」
「お昼までこの格好でいる」
「そうか」
「祐樹さん、正式なフィールドワーク、しよ!」
「ああ、そうするか」
僕と祐樹さんは並んで歩いた。
「……お前のおばあちゃんも、統合失調症を患ってたらしい」
「え?統合失調症って何?『も』ってどういうこと?」
「統合失調症は精神の病気、『も』っていうのは、俺もこの前までその病気を診断されてたんだよ」
「…」
僕は沈黙した。
「俺の住んでたグループホームは障害者のグループホームで、知的障害の人や身体障害の人、そして、俺みたいな精神障害の人、いや、自分のこと人っていうのもあれだけど、そういう人たちが暮らしてたんだ」
「もう治ったの?」
「再発する可能性も無くはない、でも寛解っていう、病気の症状が消失した状態だと医師に判断されたわけだ。精神障害者の枠から出たことになるから、障害者のグループホームも退去することになったんだ」
「そうだったのか…」
「お前のお父さん、俺の病気になったいきさつとか、回復のいきさつとか聞いて、どうやら俺のこと信頼してくれたらしい」
「そっか…おばあちゃんの話は他に何か聞いた?」
「…俺の口からは言えないな」
「うん…」
「ともあれ今日から蜜季はうちの研究員だ。今日の話し合いの最初のほうでも話した通り、弘大にも求人、そのうち出すとしてさ」
「うん!」
「新しい日々の始まりだ」
新しい日々の始まり。
僕は、期待に胸を膨らませた。
素晴らしい日々が、たった今、はじまったんだ。
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