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ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その6

<Ⅰ-4> 
ヴリッティ サールーピャム ミタラトラ
「それ以外のときには、見る者はチッタの働きに同化している」


”同化” ”同一視”というものをアハンカーラ”自我意識”から考えてみましょう。

◇同一視(identify )
羊水の中でくつろぐ胎児には、まだ「自分」という感覚はほとんどありません。

生まれ落ちてからもしばらくの間は、母親と”一体であるかのような感覚”が意識の多くを占めています。

それからどこかの時点で、「誰かから世話を受けないと生きていけない」という本能的な理解。
父親とか兄弟など他者の存在の認識。

それらを通じて自分もまた”母親とは別個の生命体”であるという自覚が始まります。

”個”という自覚イコール”自我”が生まれると、次にくるのは「じゃあ私とは何なんだろう?」という疑問。

それが疑問である間、人はどこかに不安を感じ続けます。意識の表層に登らなくても潜在的に絶えず僕たちを内側から突いて刺激しています。

だから”自我”は絶えず色々な方法で「答え」を出そうと頑張ります。

大きくは二つの方向で。。。


一つ目の方向。
自分は「周囲とは別個の存在である」という認識を強くしていく方向。

個性を強めていくことで自分を理解するということですね。

例えば、かけっこが早い自分。 

ひらがなが間違えずに書ける自分。

じゃんけんが強い自分。

「すごいね。一等賞だね。」とか

特別な行為は周囲の反応を呼び起こせるから、自分というものが分かったような気持ちがしていきます。

この感情の根を通じて、アイデンティティを形成していく傾向は、成長と共に個性的なファッションや新しい家や車(80年代的発想ですみません)
ひいては肩書きや権力などを通じて自分の存在を際立たせたいという方向にも繋がっていきます。

もう一つは、「自分とは何か?」から生じた不安を、周囲との同化によって解消していく方向。

みんなと同じ文房具。

みんなと同じおもちゃからスタートして。

みんなと同じ考え方。

みんなと同じ将来設計。

集団という「大きな存在」に自分を溶け込ませることによって安心を得ていく。

カテゴリーに自ら組み入れられることで自分を規定するやり方。

このようにアハンカーラ”自我意識”は「個性化」と「没個性化」のどちらかを求めます。

この二つ。ぜんぜん違うように見えるかもしれないけど、深いところでは同じ行為をしています。

どちらも実は「同化」です。


「個性」を強めていくためにも「没個性」に安心するためにも、自我は周囲に「同化するための対象」を必要とします。

自分を認識するために本来の自己とは直接関係のないところから、何か材料を引っ張ってきて外殻を強化していく。

そして、その外殻を「自分である」と勘違いをしてしまう。

その「勘違い」というコンディショニング(条件付け)を絶えずアップデートさせながら、僕たちは「自分」という感覚を維持し続けている訳です。


では、もしもそういったすべての同一視を取り去ったときに、自分とはいったい何者なのだろう?

その方向からアプローチしていくのが、いわゆる4大ヨーガの中の”ギャーナ ヨーガ”。
識別と英知を通して究極存在に近づくヨーガです。

「ギャーナ ヨーガとは、哲学的思索により感覚を制御して自我を克服し、真理に到達する方法である」
(スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師)


「同一視」を通じて自己の認識を確立するのがアハンカーラならば、同化を少しづつ”解体”していくことで、本来の自己にまで立ち返るのがギャーナヨーガの手段です。 


僕たちにとって性別や民族、履歴や肩書きといったコンディショニング(条件付け)の影響を受けずに、客観的な立場に立つことはとても難しいことですね。

コンディショニングを通じずに感じたり考えたりすることに慣れていないし、そもそもそこから”影響を受けている”ことすら自覚していません。

民族とか国などにアイデンティティを結びつけた場合のヒステリックな負のケースとしての問題。
これは日々のニュース等の中で散々見てきているでしょう。

しかし、それをちょっと越えた視点に立つ。
条件付けに影響された自分”以外”の視野を想像してみる。

相手と全く同じ立場にまで立てないまでも、少なくとも
「今とは違う自分の視点もあるのではないか?」
と思索してみることは、ささやかに見えるかもしれませんが意識をとても深めてくれます。

その練習材料は、「ヨーガスートラ」の中にこれから数多く紹介されていきます。

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