ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その11
◇プラマーナ② アヌマーナ・・・正しい推理による認識
正しい認識の二つ目は”アヌマーナ”
これはいわゆる推論のことです。
「引力」ってありますよね。
「引力」というものを直接に目で見ることはできません。
「今日の引力は緑色だよお。」
とか、そういうこと言う人ときどきいるけどね。
本当に緑色かもしれないなあ(笑)
「引力」を直接見ることはできません。(ごほん。)
では、広いグランドでボールを思いっきり投げてみましょう。そのうち地面落ちてきます。
今度はすっげー高く投げてみます。
衛星軌道まで。。。
そうすると今度は落ちてきません。
地球を周りはじめます。
もし月でボールを投げるなら、地球に比べてゆっくりと落ちてきます。
宇宙空間で同じことをすれば、そのままどっかに飛んでいっちゃいます。
「物体が落ちてくるためにはけっこう条件が必要なのだ!」という事実から私たちは「引力」という存在を「推論」できます。
直接知覚できない対象についても僕らは回答を知る手段を持つということですね。
こうした推論で正しい事実を導き出すことを”アヌマーナ”と言います。
オーケーマイ?
でも”アヌマーナ”には”サットヴァ”性が重要です。
意外とこれ、むずかしいんですよ。
前にテレビ番組で、江戸時代のゴーストバスターと呼ばれた人の特集を見ました。
彼は夜中にふと目を覚ました時、おぼろげな人影が部屋にあるのを目にします。
現代に比べて魑魅魍魎がずっとリアルだった時代です。
集合意識的に幽霊の存在を認めている時代なのだから、呪縛は今と比べ物にならないくらいに強烈です。
でも、勇気をもって「幽霊らしきもの」を見据えたら、それは障子の破れでした。
ゆえに幽霊などは存在しない。
その結論が彼を科学的なゴーストバスターとしての人生に導いたそうです。
さて、この話、”アヌマーナ”的に言えばどうでしょう?
実はとんでもない間違いなのです。
最初の「幽霊は障子の破れ目」という印象に完全に記憶が色づけされてしまってますよね。
だからその後に100回ホンモノの幽霊を見る機会に恵まれても、全て「障子の破れ目である!」と決めつけることになりかねない。
推論には知識が必要なのは確か。
でも気をつけないと知識によって推論はあっというまに予断にとって変わられてしまいます。
ヨダンですが、ちなみに4大ヨーガの1つ。ギャーナヨーガは”アヌマーナ”をフル稼働した先に完成するムズかし~いヨーガの道のことです。
◇プラマーナ③ 権威(聖典)に基づく認識(アーガマ)
例えば先ほどの「引力」をゼロから自分で推論した場合。
ニュートンさんについて予備知識がないままに「引力」の存在が理解できた場合。。
「おれ すっげー発見した!
りんご落ちてきたの見て、もう全部分かっちゃった!もおパーフェクト!!
何って?
宇宙の摂理!
君、知りたい?
ねえ、知りたい?」
鬱陶しいかもしれないけど、理科の授業をサボリっぱなしの友人が本気でそう言ってきたら、その場合彼は”アヌマーナ”をしてたことになります。
大切にしてあげてください。
それに対して、学校の授業で習ったり、本で読んだりして知った認識。
こちらが”アーガマ”(権威や聖典に基づく認識)ということになります。
◇プラマーナ③ アーガマ・・・権威(聖典)に基づく認識
権威というイメージは「聖典に基づく認識」よりも「科学に基づく認識」とか「常識に基づく認識」と現代では置き換えたくなりますが。。
自然科学とは歴史的に見れば、絶対権威であった宗教に対する立証と反立証を通じて証明されていった知識です。
その結果、現在では科学や医学が権威の代表となりました。
でもそれらも日進月歩の世界。
つまり、まだ「絶対の事実」を語った訳ではありません。
20年前の理科の教科書と今の教科書では事実とされている内容はずいぶん違います。
もう10年過ぎれば、いま真実とされていることは全部カンチガイってことは十分にありえるのです。
小説「ノルウェイの森」の中で永沢さんというキャラクターに
「30年時の洗礼をうけていない本は読むに値しない。」
といったセリフがありました。
一種「時の洗礼」を”アーガマ”に見立てた”プラマーナ”ですね。
もちろん時の洗礼で絶対的数値は示せないんだけど、ヨーガでは例え幾千年の歳月が流れようとも
「ごめん!さっきのナシ!やっぱカンチガイ❤」
とはならない知識を権威の対象とします。
ちょっと前の時代まで妊婦さんに推奨されたス~ヒーハーのラ◯ーズ呼吸。開発者さん自身が
「ごめん!あれはなかったことにして❤」
と言ったとか言わなかったとか。。
インド思想では権威の対象として「聖典群」というものを打ち立てています。
「ヴェーダ聖典」「ウパニシャッド」などなど。。
では、それらの聖典とは、どんな内容を扱っているのでしょう?
聖書や仏典同様に「時の洗礼に風化しないテーマ」を扱っているのです。
神というコトバ。空性というコトバ。
ニュアンスの差こそあれ、そこで語られる共通したテーマは「絶対的な真理」について。
ヨーガの場合は、”モークシャ”というコトバを使います。
だからヨーガ聖典は「モークシャ・シャーストラ」とも呼ばれます。
日本語にすれば「解脱についての科学」
全ての科学は、少なくとも現段階では最先端を真理とする宿命を持ちます。
ですが、解脱というテーマには最先端もファッション性もありません。
ウン千年前に聖典に記された内容には、解説書が増えることはあれども、加筆修正が加わることがないのです。
だから
「その真理って1000年前の流行ぢゃん。」
とか
「来年ヒットする解脱はこんな感じ。」
とかは有りません。
人間の心の構造は千年前も現代人もほとんど同じようなものです。
確かにヴェーダの時代。
ウパニシャッドの時代。
タントラ経典の時代。
時代によってさまざまな聖典が確立しました。
でもそれは、
「人間の進化によって聖典の内容が変わっていった。」
という訳ではなく、その時代時代の人間が理解しやすいように
「聖典のほうから歩み寄っていた。」
というほうがたぶん正しい。
この”歩み寄り”を理解するためには「ユガ」とよばれるインドの宇宙観を知る必要があります。
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