ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その13
<Ⅰ-9>
シャブダ ニャーナーヌパーティー ヴァストゥスーニョー ヴィカルパハ
「ヴィカルパとは、言葉の上だけに想起される実体を伴わない知識である」
言葉とはコミュニケーションの手段の1つとして人間独自に発達したものですが、発声を使ったコミュニケーションは他の生き物たちもカラフルに楽しんでいます。
適齢期のメスさんいませんか~。 とか
あっちはライオンいるよ~。あぶないよー。 とか
ここ僕の縄張りだよ~。
などなど、いま目の前の問題や先に起こる可能性を解決したり回避したりするためにウォーンとかチュンチュンとかでお互いに意思を伝えあってます。
こうしたコミュニケーションを全部ひっくるめて言葉とするならば、人間も動物も言葉を使っていると言うことができます。
でも他の生き物に比べて僕達のトクイな言葉の”使い方”があります。
それが”ヴィカルパ”。
コトバを材料にして”概念”的または”抽象”的な思考をすることです。
言葉というものが発展していく過程で、”抽象化”や”概念化”が生まれました。
その言葉の示すコト自体じゃなくて「近似値」を心に描き、イメージを伝え合うことができるようになったのですね。
「果物」はありません。あるのはブドウやリンゴです。
「野菜」という植物はありません。でもキャベツをみれば私達は「野菜」という共通認識を持つことができます。
そしてイメージ化の延長線上では実際に存在しないものも言語にできます。
一本角の馬とか。
翼の生えた蛇とか。
見たことなくてもイメージできますね。
漆黒の白馬。
南にある北極。
前方にバック。
イメージには矛盾が出ますが、言葉としては問題なく口に出せます。
ではこういった”ヴィカルパ”というもの。
何の問題点があるのでしょう?
なぜヴィカルパが”クリシュタ”(苦しみを引き起こすもの)であるとされるのでしょう?
理由はいくつかあります。
ひとつは争いのタネになるから。
コトバは脳内にイメージを形成させます。自分のアタマの中に出来たイメージと、相手のアタマの中に出来たイメージが近いほど”言葉は通じ”ます。
具体的なイメージ。。例えば”鉛筆削り”や”マッターホルン”ならばお互いの間に食い違いは生まれません。
平和な毎日を送れます。
でも”愛”とか”正義”とか抽象的なものほど、お互いの持つイメージの間にはズレが生じてくる。
「愛してるって言ったじゃない!」
「愛しているからこそ別れよう!」
いつか分かり合えるといいですね。
2つめは、言葉の上にしか存在しないものを「有る」と信じることよって生じるトラブルの数々。宗教がらみも多いので具体例はあげられませんが、言葉には真実をあえて見えにくくする力があります。
そして3つめ。
嘘つきになれること。
言葉には相手の心にイメージを喚起させる力があります。だから物事を有利に進めるために”事実”をねじ曲げて伝えるツールにもなります。
もし「あっちにライオンがいるよ~」という嘘の信号を出せるシマウマさんがいるならば、餌が豊富にある土地を独り占めできます。
「ここは俺のシマだ。」とか。。
正直なシマウマさんに比べると人間はそういうこと沢山やってます。
言葉をつかって相手を騙すだけなら良いんだけど(本当はだめだよ)、自分で自分を騙すことまでやりはじめるから、僕たちニンゲンには困ったことが山積み。
もしも心の中に真実だけが映っていたら、苦しみはきっとシンプルです。
分かっている嘘も。
妄想も。
事実も。
心の中で絡まりあっているから苦しい。
どうにかしないと耐えられない。となるのです。
そんな困った”ヴィカルパ”ですが、これには、クリシュタ(苦しみを引き起こす)とアクリシュタ(引き起こさない)の両方あると個人的には思います。
”概念化”も悟りのツールになるからです。
いままで出てきたヨーガの用語も全部
「はいこれです。手にとってみて!」と目の前に提示できません。
僕らがまだ直接経験(超感覚)”プラティヤクシャ”を通じて現実に触れることが出来ない間は、正しい理解を助けるために”概念”に助けてもらう必要もあるのです。
そうでもしなければ聖典なんぞに取っ掛かりを見つけることもできません。
のちのちヨーガスートラの第一章には、ヨーガの目標として”サマーディ”という言葉が頻繁に出てきます。
この”サマーディ”。何段階かにレベルが分かれています。
第1サマーディは「概念化」も道具に使う”サマーディ”です。
そして最終的な”サマーディ”こそは一切の概念化を越えたところにあるものだと説明します。
だから”ヴィカルパ”も梯子と同じと考えればいいと思います。
使えるところでは上手く使う。
手放せるのはきっとその後です。
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