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ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その2

ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その2

◇「ヨーガスートラ」への取り組み方
当たり前ですが、ここでの解説内容は「ヨーガスートラ」という大平原にある砂の一粒にも満たないものです。

伝えられることはほんの僅か。

あとはそれぞれのフレーズについて、ご自身で熟慮していくことが大事です。

そして日々の体験に照らし合わせていくことがさらに大切です。

「ラージャヨーガ」の主題。つまり「スートラ」で触れていくテーマは、ヴィヴェーカーナンダ大師の言葉によれば以下に纏めることができます。

・自己とは、心とは何か。
・心が私たちの行動や経験を決定するのか? 
・私たちは心を制御することができるのか?
・真実とは何か?


そして”ラージャヨーガ”の目標とは何か? 
・人間の完全なる変容 
・自然との同調 瑣末な限定からの超越

そのための”ラージャヨーガ”の手段とは何か?
・深く集中して考える能力 
・熟慮 (ディヤーナ・これは心の潜在能力であり、訓練と発達を必要とする)


なんだか壮大だし難しそうですね。


もし、”ヨーガスートラ”や”バカヴァットギータ”といった経典を、知識ではなく”智慧”として、もし”ハート”から完全に理解できるのならば、人生一丁あがりにしちゃってもオーケーかもしれません。

だからこそ、気をつけたほうがいいことがあります。
こういった経典を学ぶ時とには「分かったつもり」に満足しないこと。

経典は真理を言葉化したものではあります。

ですが「言葉の捕らえ方」とは、個人個人の「体験という枠」の内側から出ることは出来ません。


例えば象の絵をかいてみましょうか。


なんとなく同じように書けますね。うまい下手は別として(笑)


では今度は、哺乳類の絵を書いてみましょう。


この場合、ネコだったり、サルだったり、同じ動物の絵を描く可能性は非常にすくなくなります。


「共通認識」とは、対象が”広義の意味合い”を持つほどに曖昧になっていくのですね。

アルパカ談義

さて、では”ヨーガ スートラ”の中心テーマ「ココロ」というもの。
ココロという”概念”に対して、私達はどのくらい「共通認識」を持っているでしょうか?

この言葉にたいする印象は哺乳類の絵の曖昧さどころじゃなく、個人によってまるで違うのではないか。。?とは思いませんか?

”ヨーガ スートラ”のフレーズ。二つ目は


<Ⅰ-2> 
ヨーガハ チッタヴリッティニローダハ
「ヨーガとは、チッタの作用を止滅させることである」

です。
ここで述べられる<b>「チッタ」</b>という言葉。
これからよく出てくるので覚えておきたいサンスクリットの重要単語で、ざっくりした訳を当てはめると「ココロ」という意味です。

でも、この「チッタ」を、僕たちが概念として使っている「ココロ」のイメージで定義してしまうと、経典が伝えたいこととはまるで違う意味に解釈してしまうかもしれません。

心の作用の止滅がヨーガって。。どういうことだろう?

ヨーガって無感情になって心を麻痺させれることなのかな?

誰もそんなふうに単純には考えないよ。と思うかもしれませんが、あるヨーガ団体が教典の言葉を単純に捉えたり歪曲させることで、まともじゃない命令にも疑問も持てずに起こした大きな事件なども過去にはありました。

こういった経典を学んでいく場合、書かれている内容について学びを受けたこと、自分が解釈できたことには常に”アップデート”できる余地はあると思ってください。

今日得た”理解”も、明日の”経験”によってはすべて見直さなければならないよ。

ぐらいにアタマを柔軟にした態度で取り組んでいくことが大切です。

暫定的な正解を努力して出すことはもちろん大事です。

でも正解は他に存在するかもしれない。。。

アーサナの練習で例えてみましょう。

同じアーサナでも、その日の体調や気分、昨日の出来事によって毎日違う感覚に変化しませんか?

究極の完成型。もうこれしかありえないといった型と意識の状態が見つかった!と感じるときがあっても、それを全く同じに毎日再現はできません。

このアサナ分かったからもういいや。。だとそこで成長が止まってしまう。

自分が出す正解とは、実は常に「暫定的正解」にすぎないということを踏まえて、スートラの言葉に耳を傾け続けていくならば、必ずより良く生きるための沢山のヒント出会えるはずです。


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