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ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その7
<Ⅰ-5>
ヴリッタヤハ パンチャタイヤハ クリシュターアクリシュターハ
「チッタの作用には五種類ある。それらは苦しみを引き起こす”クリシュタ”ものと、引き起こさない”アクリシュタ”のものがある」
ココロの働きというものをシンプルに区別するならば
1”クリシュタ”(苦しみを引き起こすココロの働き方)
2”アクリシュタ”(苦しみを引き起こさないココロの働き方)
二つのうちのどちらかです。
私達の素直な感覚とはどうも馴染みにくいかもしれませんが、「苦しみ」とは”数値化や計測”できる物理的なものではなく、個々の”命を持つもの”の主観であり、出来事に対するリアクションであるとスートラでは考えます。
つまりココロの側が”引き起こし”ている”現象”とするのです。
有名な仏教用語に「四苦八苦」というコトバがあります。これは
”生老病死”(生まれてきたからにはヨボヨボになるしゲホゲホするしいつか死んじゃう)という苦しみ(四苦)に
”怨憎会苦” (いけ好かないヤツに会っちゃう)
”愛別離苦”(好きなのに別れちゃう)
”求不得苦” (これ、ちょっと欲しいのと違ったかも。。)
”五蘊盛苦”(生きているだけで。。あーもう!)
の4つを加えた合計8つの”私たちが避けることのできない苦しみ”を説明するコトバです。
これらは純度100%の絶対的な苦しみでしょうか?
ココロが作る苦しみと言えるところもあるでしょうか?
”愛別離苦”を例に見てみましょう。
これは「どれだけ大切な相手であっても必ず別れの時は平等に訪れる」
という苦しみを指しますが、客観的な事象だけみれば
「私のいる世界から”今”あの人は”不在”になってしまった」
という事実があるだけです。
大切なあの人もまだ”出会う以前”では私の世界には「不在」であったはず。
でも出会う以前には自分の世界をそこまで「苦しい」と感じていたでしょうか?
同じ”不在という現実”に苦しみを贈与するのは、まぎれもなく私たち自身のココロとだということです。
苦しみを”引き起こす”というココロの働きついてもう少し続けましょう。
「命を持つもの」にとって「共通する」と思われる「苦しみ」は何でしょう?
あれもこれも相当キツそうだけど
「やっぱり一番キツイのは”生老病死”の大トリ”死んじゃうこと”かなあ?」
と思いませんか?
ならば「命を失うことに関わりそうなこと」を私たちは何よりも避けたいはず。
のはずですが、私たちが自分の生き方を省みればどうでしょう?
命を無駄に削るような行為をあえて選択していること。
いっぱいありませんか?
”怒り” ”失意” ”嫉妬”といった感情はその場の気分の良し悪しだけでなく、確実に内臓系統にまでダメージを蓄積します。
白髪もふえます。シワも深くなります。
だったら、さっさと気持ちを切り替えれば良いはず。
でもキツイ思いほど私たちは繰り返し、牛が草を喰むように反芻して”追体験”をしまくってしまう。。なんてこともありますよね。
こういった「負の感情」は「新たな負の感情」を栄養としてココロに宿り続けるという一種の生命体のような働き”サンスカーラ”もあるのですが。。
本題から逸れてしまうのでいったん脇に置いておきましょう。
”苦しみ”とは認識のあり方であって、外部で起きた”出来事そのもの”ではないのです。
もちろん「だから割り切れ」という話の流れではありません。
苦しみはまぎれもなく””実感としては存在しますもの。
でもここでは
「苦しみを引き起こしているものには実体はない。すべてはココロの働きによる。。という考え方もある。」
というポイントだけ押さえておいてください。