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情報の「あの世」と「この世」

あの世というものがあると仮定します。

生物であるとか物質であるとかを問わずあらゆるモノが辿り着くのがあの世だと考えるものとします。しかも「あの世」というほど遠くはなく、「この世」と区別できないほど近しいものだと仮定します。

大変に混みあってそうで、きっと満員電車の比ではないほどぎゅうぎゅう詰めなのでしょうね。


考えてみても下さい。

地球に生命が誕生してからどれくらいの年数が経っていると思いますか?
どれくらいの生きものが死んで、どれくらいの物質が変化してきたと思いますか?

もう、「居て当然」なほどそこら中にギッチギチに詰まっていますよ。きっと。なので「ここには〇✕の幽霊がたくさん居る」は不正確であるとなり、「私の感度ではそこまでしかわからない」が正解だということになります。どうせギッチギチに詰まっているのですから。


物質でもあの世にいけるとするならば、星もあの世に行けることになります。もっといえば、私たちが宇宙と呼んでいるものはきっと他にもあるでしょう。かつ、私たちがいるこの宇宙が最初に誕生したということも考えにくい。ならば、すでに終わってしまった他の宇宙もあの世に行っていることになる。

宇宙の外ですら、もう、ぱんぱんなのでは?


さて、落合陽一さんによってオブジェクト指向菩薩が法要されたり、計算機自然神社が創建されました。ということは、情報もあの世に行けるようになったのだろうか。

化けてでるのが生き物だけではなく、物質もでてくるし、情報もでてくるとなるとこれまた賑やかです。あの世にいける条件はわかりませんが、この世で生産され役割を終えた情報の総数は想像すらできません。

神道では石や木にも敬意を払い、しめ縄を巻いたりします。情報に敬意を払い、情報にもしめ縄を巻くのだろうか?

情報の霊は「言霊」に合流するのだろうか?

プログラムのコードにも座敷童って憑くのだろうか?

コードの荒魂ってどんなんだろう?どうやって鎮める?祭りか。供養か。



読んでくれてありがとうございます。

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