人との繋がり 1
1度目の再発は病名がついて、自己注射を始めて10ヶ月目の春だった。この時は精神的に1番凹んだ。
2度目の再発は翌年の2月。その後週に1度の筋肉注射から2日に1度の皮下注射に変わったがまたすぐに再発。
3度目の再発は、2度目の退院後わずか2ヶ月の5月だった。
再発しても精神的な部分では何とか頑張れていたが、3度目の再発は恐ろしい体験をする事になった。ゴールデンウィーク前から体に異変が出てきたが、家庭訪問や主人の出張の予定が入っていたので、入院を延ばし延ばしにしていた。その間も眩暈や嘔吐が続き、近所のお世話になっているクリニックで眩暈止めの点滴をしてもらいながら数日自宅で過ごしたが、体調が回復せず、結局入院する事になった。この時の異変は、数日かけて味覚がなくなっていき飲み込みが悪く、食事も出来ず水分中心での生活で数日過ごした。 入院時には歩いて病棟上がったのだが、息苦しいと思ったら血中酸素濃度も低く、顔の左半分は全く感覚がなく瞬きを殆どしない目、歩けない足、自由の利かない左手、おまけにうまく言葉が出ない。数日間入院を迷っていた事で、想像以上に症状が悪化していた。私が入院する事になると、周りが大変になる。そう思って自宅で数日過ごした事で更に悪化し、結局入院が長引き迷惑掛ける結果となった。
毎回入院時には母が妹が付き添ってくれ、この時も妹が一緒だった。入院手続き後、病室で一通りの検査を済ませ食事を取る私の姿を見て、
「え?ふざけてるの?」
と笑いながら言う妹。右手で食べ物を口に運ぼうとしてもうまくいかず、口だけが先に開いてしまう状態だったので、おかしい光景だったのだろう。自分が考えている動作が上手く出来ず、右から食べたものが左から出てくるので、自分でもどうしていいのかわからなかった。妹はいつもちょっと毒舌だが、本当はかなり心配性の性格で、1度目の入院時にも10円ハゲができたと大騒ぎだった。毒舌を吐く事で、自分の心のバランスをとっているのだろう。私も彼女の言葉が笑になって救われている部分も多い。
そんな妹とは小さい頃から仲良し姉妹ではなく、姉が妹に嫉妬して育った感じの姉妹だった。理由は親の理想通りに進む妹は何をしても親から褒められ、羨ましいと思って育ったからだ。妹も姉を好んでいない感じではあったが、お互い嫁ぎ環境が変わったおかげで、姉妹らしくなってきていた。更に病気を患ったおかげで、私も彼女も死に直面して、お互いの大切さも今まで以上にわかってきたのだと思う。両親もまた、病気になって前向きに生きる自分を褒めてくれる事で、私の気持ちにも変化ができて出てきたのかもしれない。
いくつになっても、子供は親に褒められたいものだと考えると、私の娘達もまた同じような感情持っているに違いない。病気になって、今まで感じなかった色んな事を知り日々勉強になっている。周りには助けられてばかりの関係だが、文句1つ言わず付き合ってくれる家族や身内が側にいる私は、とても恵まれていたようだ。
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