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左右の視力差がすごい

僕は右目と左目で視力が大きく違います。
具体的にいうと、右目が1.0で、左目は0.1以下です。
このように左右の視力差が大きいことを「不同視」というそうです。

不同視ではない方からしたら、こんなに視力差があって大丈夫なの?と思うかもしれませんが、日常生活は特に困りません。脳が左目(悪い方)で見た像をうまく無視してくれるので、基本的には両目視力1.0の人とたいして変わらない世界を見ていると思います。裸眼で運転免許を取ることもできます。ただ、授業などで黒板を見ているときに、前の人の頭がかぶって左目でしか見えない角度になると、何も見えなくなったりはします。

不同視に気づいたのは小学四年生くらいのときの視力検査だったのですが、日常生活にはとくに困っていなかったので、メガネやコンタクトによる矯正はしてきませんでした。
むしろ片目だけ見えていないということに何か特別なものを感じて、不同視であることをすこし誇らしげにしてきました。
すると、普段右目だけで見ているので、使わない左目の機能が衰えるのでしょうか。左目の視力はどんどん悪くなっていきました。
そしてふと、不同視って脳になにかしら悪い影響があるのでは?と不安に思うようになりました。

だって、人間は二つの眼を持つことで、立体視ができているわけです。だから片目でみている僕は、世界が平坦に見えているはずです。
それを「ものが重なって見えなくなっているから、あれは遠くにあるはずだ。」とか、「小さく見えるから遠くにあるはずだ。」という知識で補っているからなんとか3次元を把握できてるわけです。

最近見たYouTubeによると、アフリカの熱帯雨林に住むピグミーという民族は、常に木々に囲われたジャングルで生活して、遠くを見る機会がないので遠近感が発達していないそうです。
ある人類学者がピグミーの人々を初めて湖の開けた場所に連れて行ったとき、ピグミーは遠くで水を飲む水牛の群れを指さして、「あの虫はなんていうんだ?」と訪ねたらしいです。
つまり「遠くにあるものは小さく見える」という知識がないために、こんな勘違いをしたわけですね。

話がそれましたが、自分も世界が平坦にみえているはずなので、世界の見え方に関する知識がなければピグミーと同じ間違いを平気で起こすような体であるといえます。
このように人間が本来持っている能力を失っているっていうのがなんか怖くて、数年前から左目だけにコンタクトを入れて矯正するようにしました。

やはりコンタクトを入れ始めた当初は世界が3Dに見えるのがなんか気持ち悪くて、3D酔いみたいなのをしていたのですが、だんだん慣れてきていまは大丈夫です。
それにしてもずっと世界が平坦に見えていたというのは、とても損をしている気がします。例えば僕はずっと球技全般が苦手だったのですが、それも片目で見ていて遠近感がなかったからなのかなぁと思います。

そして片目で世界を見てきたことで、もう一つ損しているんじゃないのかなと思うのが、情緒が欠けていることです。

よく右半身は左脳と関連していて、左半身は右脳と関連しているとか言いますよね。そして左脳は論理的な処理に関わっていて、右脳は情緒とか創造とかに関わっているとか。
実際にはそんなはっきり別れているわけではなく、右脳と左脳の間のやり取りもあるらしいのですが、自分は勝手に、ずっと右目だけで世界を見てきたから、右脳の情緒的な部分が欠けてしまったのだと思っています笑。(暴論)

最近まで「小説とか読んでも意味なくね?」とか思っていたし、物語などで感動することも少なかった。本でも興奮するのは知識を提供してくれたり、新しい理論を提供してくれるものだった。

でも最近は、情緒豊かになることに憧れが出てきて、小説や詩、短歌、俳句などを少し読むようになりました。でもいろいろなものを読むたびに、自分の読みの浅さに絶望する日々です。

でも少しずつ、深く読めるように、情緒を耕して行きたいと思います。
そしてそのアウトプット先として、このnoteを使って行ければと思います。

(ちなみに、不同視だと老眼になっても近視の方の眼が近くをみる役割を担ってくれるので、左右で遠近を使い分けて老眼鏡がいらないらしいです。やったー!)

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