王子のキスは「犯罪」になる可能性を覚悟した英雄的行為 〜二次創作で検証する「白雪姫」〜
「まさか、そう来たか……」
2017年冬、私は自分の世界観を揺るがす難問ーーそれも、おとぎ話をめぐる難問(!)ーーに直面していた。
おとぎ話をめぐる炎上
あなたはおとぎ話にどれくらい思い入れがあるだろうか?
約二年前、「白雪姫」をめぐる次のようなツイートが議論を巻き起こしたことは記憶に新しい。
白雪姫とか眠り姫とかの「王子様のキスでお姫様が長い眠りから目覚めた」おとぎ話、あれも、冷静に考えると、意識のない相手に性的行為をする準強制わいせつ罪です。「そんなの夢が無い」との反応あるかと思いますが、逆にこんなおとぎ話が性暴力を許している、との認識に至っていただきたいものです。(@peureka2017/12/11)
親御さんの本の選択はもちろんご自由ですが、王子というだけで突然女性にキスする、なんて話、気持ち悪く無いですか?男の子にそんなDV男に育ってほしくないし、女の子にはそんな無力な被害者になってほしくないですよね? ひたすら受け身の女の子が幸せになる、みたいな教訓ですか? (@peureka2017/12/12)
ここに引用したのは、ジェンダー論を専門とする社会学者、大阪大学の牟田和恵教授が、大阪の電車内で起きた「眠っている女性に男がキスをした」という事件を受けて行なったツイートである。当然のことながら、このツイートを受けて、フィクションによる表現の自由やフィクションを楽しむ自由を擁護する立場から「フィクションと現実をゴッチャにするな」等々の反論があった。
この大炎上を目の当たりにした私は、どこかうすら寒い思いを抱いた。というのは、女性として歴史的にフェミニズムの恩恵を受けてきた立場の人間としては言いづらいのだが、フェミニズムの潮流が、それこそ旧約聖書に出てくる大洪水のように人類の過去の遺産のすべてを根こそぎにしてしまいそうな勢いをこのツイートに感じたからだ。もちろん無くなった方がいいような「伝統」がまだこの世界にあることを私は否定しないし、フェミニストはフェミニズムにそこまでの力はないと反論するに決まっている。
しかし、そもそもこのおとぎ話(ここでは「白雪姫」に焦点を絞る)には、未来の子どもたちに伝えるに値するような価値が、本当に何一つないのだろうか?
「白雪姫」と自分の人生がリンク
さらに付け加えるなら、私はここで議論されていた事柄について看過できない個人的な事情を抱えていたのである。というのも、私という人間が過去に離人症を患い、初めて男性とキスした際に離人感が消失したという体験の持ち主だったことである。
そのキスは、決して「私の同意なく行われた」というわけではないのだが、それでも白雪姫の仮死状態と離人感の間には、「仮死状態」=「離人感を象徴的に表現したもの」というようなアナロジーが成り立つと言えるだろう。さらに、少し大げさに言えば、そのキスがなかったなら、「離人症でない今の私」はこの世に存在しなかったということになり、「白雪姫の生還」=「離人感の消失を象徴的に表現したもの」と受け取れなくもないわけである。
だから、自分にとってのこの「第二の誕生」と言ってよい出来事と、白雪姫の物語とに少なからず共通点を感じながら生きてきた私にとって、「王子の白雪姫に対するキスは犯罪」という意見は、到底承服できるものではなかったわけだ。
私の人生は、牟田教授が指摘したような意味とは全く別のポジティブな意味で、「白雪姫」とリンクしていたのである。
ーーしかも私自身の意図を超えたところで。
「白雪姫」を助けたい!
だからこの炎上に接した私が、
「今目の前でけちょんけちょんにされている『白雪姫』という物語を救い出す責任は自分にある」
そう感じたんだ、と言ったらあなたは笑うだろうか?
しかし、それ程の意気込みにも関わらず、当初私はこの社会学の教授の主張について、自分には何ら効果的な反論ができそうにないという無力感を感じていた。
それは他の人たちのツイートを見ていても同様で、皆口々に反論はしていたが、その反論の中身は、反論している人たちの間では互いの共感を呼んではいるものの、立場を超えて牟田教授との相互理解が深まる方向には全くと言っていいほど進んでいなかった。
つまり状況は絶望的だったわけだ。
それでも「今立ち上がらなくてどうする」という場違いな使命感に駆られた私には「諦める」という選択肢はなく、「何か他にいい方法はないものだろうか?」と考え続けた。
そしてついにあることに思い至ったのである。
この件で「フィクションの自由擁護派(ここでは仮にそう呼ぶ)」の人たちが牟田氏にこぞって反論したのは、彼らが「白雪姫」という物語に、私と全く同じではないにしろ、何らかの価値を置いているからだろうと私は思った。もちろん、「ここで戦っておかなければ、自分にとってもっと大切な物語の創作や観賞の自由が脅かされるかもしれない」という冷静な計算はあったかもしれないが。そして彼らの一部は、私を含め、いわゆるオタクであった。
もしそうであるならば、そんなベタな反論をするよりも何よりも、オタクにとって伝家の宝刀である二次創作の力でもっと効果的に反論すればいいじゃないか!? と私はこの時声を大にして言いたくなったのだ。
現代版「ノアの方舟」としてのおとぎ話のアップデート
私の考えによればオタクは、二次創作の力によって、この避けることのできない、いや避けるべきでもないフェミニズムの大洪水を生き延び、未来の子どもたちに手渡すべき人類のDNAを保存するための「ノアの方舟」を作り出すことができる貴重な存在なのである。つまり私たちは、物語中の、語り継ぐべきエッセンスを生かしつつ、問題のある要素に手直しを加えることによって、先祖が遺してくれた民衆の夢や知恵をアップデートして未来へと託すことができるというわけなのだ。
あなたがそのようにして編み出した物語に出会う時、フェミニストも初めて悟るだろう。あなたが元々の物語の中にあらかじめ見出していた、埋もれた価値をーー。そしてその時、両者はもはや敵ではなくなる。
Let's 二次創作「白雪姫」
さて、私の場合だが、「白雪姫」の一節に次のようなアレンジを加えることによって、「眠っている女性にキスをした男が準強制わいせつ罪で逮捕される」現実と、このおとぎ話の伝えようとする「夢」との間に何の矛盾もないことを証明しようと考えた。
あるとき王子の夢に神が現れ、「王子がキスをすれば白雪姫はよみがえる」と告げます。しかし生き返った白雪姫が王子を愛するかどうか、逆にキスをした王子を嫌いになるのかどうかは神にも予見できず、もし白雪姫に嫌われてしまったなら、王子は白雪姫の代わりに魔女の呪いを背負うーーつまり、王子を愛する誰かが王子にキスをしてくれるまで永遠に眠り続けることになるーーと言うのです。
しばらく考えてから、王子は覚悟を決めて白雪姫の唇にキスをしました。
息を吹き返した白雪姫は、王子の無償の愛と勇気に心を打たれ、王子に心からのお礼を言っただけでなく、王子を愛するようになったのでしたーーめでたし、めでたし。
このアレンジ、つまり新たに付け加えた設定によって、物語の何が変化しただろうか? 王子が「(牟田氏が指摘したような)自分がキスをしたらどんな女も喜ぶだろう」といった独善的な考えでキスをしたのではない、ということがまず明確になったと言える。さらに、男女の立場の交換可能性に読者が開かれるための仕掛けをほどこし、性別に関わらず能動的な立場に付随する責任の重さや、相手に拒絶されることへの恐ろしさに読者の注意を向けた。そして受動的な立場の人への配慮の大切さとともに、同意の必要性をも私たちに気づかせてくれる物語へと生まれ変わったわけだ。
一方、元々の物語が持っていた「キスの魔法」とでもいうべき要素もまた、生き延びることに成功した。この物語から「同意のないキス」という要素を除いてしまったら、「キスの魔法」もまた死んでしまったことだろう。
それと同時に、私が「白雪姫」を好きであることは、私が「性的同意を軽んじる人間」や「性暴力を容認する人間である」ということを意味しない、という当たり前のこともまた、このアレンジによって証明されたのではないだろうか?
「キスされて初めて、驚きと共に自分がキスをしたかったことに気づく」というような奇跡や、無意識の欲望がこの世に存在することを私は信じる。
一方で、人が「奇跡」に感動するためには、前提として「そのような出来事が起こる確率がとても低い」ことの理解が必須であることは言うまでもない。だから、王子が危険を冒して白雪姫にキスをしたことも奇跡ならば、白雪姫が王子を愛したこともまた奇跡なのである。このことを理解できる良識ある人だけがこの物語に感動することができるのであって、「自分は王子だからキスをしたらどんな女も喜ぶ」と思っているような人物ーーつまり「常に奇跡が起きる」と思っているような妄想に取り憑かれた人物は、そもそもこの物語に感動することはできないのではないだろうか?
このような反論は、後出しジャンケンと言われるだろう。しかし、「白雪姫」の物語を愛する人、そして「フィクションの自由擁護派」の中には、私以外にも、私が二次創作で取り出して見せたような物語を、原作の中にあらかじめ「観ていた」人たちがいたのではないかーー私にはそう思えてならない。
(ヘッダー画像はTimeSkipLuffyさん撮影)
このノートに関連した新しい企画があります。「キスの魔法ともう一つの『白雪姫』」