【SHHis】OO-ct.――ノー・カラットについて【シャニマス】
アイドルマスターシャイニーカラーズのユニット、SHHisのイベントコミュ【OO-ct.】についてのまとめと感想です。
無限にネタバレをします。
今後読む気がある人は公式を楽しんでからどうぞ。
特にそうではない人は読んで興味をもってくれたらいいな。
前提
「SHHisは極めて物語的象徴性の強い二人で構成されたユニットである」
本評論はこの考えに基づいていることを断わっておく。
ここでそれぞれが象徴するものを説明すると、緋田美琴が「見る」ことを意識する主体的な存在としての象徴であり、七草にちかが「見られる」ことを意識する客体的な存在としての象徴である。
(これはW.I.N.G.コミュや「OH MY GOD」にて明示された様々な表現からの考察であり、その考察をすると構成が不細工になるため、今回はその詳細については省略する。)と思ったが、必要不可欠なので本項にて概説する。
アイドルの主体と客体
アイドルの意味は「偶像」であり、かつてのアイドルとは偶像という言葉が示す通り、世間一般に求められる女の子像そのものであることが意識されたものであった。しかし、次第にアイドルが増えると、必然的に競争が発生し、その結果として個性が強く押し出されるようになった。そして現在、誰かに注目される仕事である点においては偶像性を維持しているものの、優れたアイドルとは世間の期待で形成された客体であるだけではなく、むしろ競争を制する主体としての性格も強くなってきた。
SHHisは、アイドルに必要となった客体性と主体性を主題としたユニットである。
にちかは客体的なアイドルとして、美琴は主体的なアイドルとしての性質が、WINGコミュでのアイドル活動の動機、目指すアイドル、アイドルとして欠けているものなどに良く表現されていた。
まず、にちかについては、偶像である八雲なみへの憧れが原動力であり、「なみちゃん」が目標だった。靴に合わせようとする彼女の在り方は客体性を端的に表していた。一方で一昔前の、世間一般の理想であるアイドルを真似る彼女の姿は、典型的であるだけのアイドルであり当然ながら個性に欠けていた。
次に美琴については、パフォーマンスで皆を感動させたいという主体的欲求が原動力である。彼女はレッスンによって実力を高めて真っ当な競争力を獲得している個人であるが、しかしアイドルとして世間に求められる愛嬌やキャラクター性と呼ばれるような話題性に欠けていた。
SHHisの名前と主体および客体
SHHisというユニット名は、「見る」という意味の''see''という音を含み、これはお互いに見合うことを意味している。お互いが主体として、相手を客体化しあうことを意図している。そのことはこれまでのpSSRが必ず二人セットの思い出アピールであることなどからも窺える。
そして、SHE(私が)SHE(私に)なるためのーという謳い文句から、それぞれ主体と客体に偏った彼女らが、その二つを両立させることを一つの「私」の定義としているように考えられる。
「OH MY GOD」
またこの観点から考えたとき、「OH MY GOD」という彼女らのデビュー曲の意味がよく分かる。
「OH MY GOD」は、SHHisの在り方を示す、まさしくテーマソングである。異なる二人でも目標は同じだと言ったり、自分たちを翼に見立てて他でもない私達ならどこへでも行けるとしたりしている。
ところで、神は様々な特性を持つものであるが、その権能として共通する重要な特性は評価するということだ。
神はその存在を前提にして、純粋な行為や思考の善悪を裁定する特性があるのだ。例えば、ヒンドゥー教においては、その信徒でない私たちにとっては善でも悪でもない牛を食べる行為を、悪と決めるのだ。このとき、神は純粋な行為という主体に善悪という意味を与えて客体化している。
神の目から見てどう映るのかという基準で行為や思考を客体化するこの現象を、ユニットメンバーのお互いがやるという意味が暗喩されており、しかるにこの楽曲の、あるいはSHHisの「MY GOD」は、にちかにとっては美琴であり、美琴にとってはにちかなのだ。
カミサマ
カミサマこと斑鳩ルカさんを見てみよう。彼女のキャラクターは未だ多くが開示されていない。しかし「カミサマ」という偶像として若年女性からカルト的人気を博しているらしく、シャニマスは和泉愛依に見られるように、カリスマと客体の関係を扱っていることから斑鳩もおそらくは客体的な存在であることが推察される。
そこで当然湧いてくるのは、どうしてにちかは良くて、カミサマは駄目だったのかという疑問だ。彼女は何故、主体偏重の美琴さんの人生において、果てしなく重要な意味を持つ''MY GOD''になれなかったのであろうか。
OH MY GODは、カミサマと呼ばれる彼女に大きな挫折と圧倒的な敗北を突きつけるテーマソングだ。
今回のイベントコミュのテーマについて
今回のイベントコミュのテーマを総括すると、にちかがSHHis、あるいはアイドルとしての自分の在り方を発見する話である。
以降は各論的にそれぞれの話について述べていきたい。
オープニング:「Ⅰ」にちかの在り方についての不安
オープニングでは、今回のイベントコミュにて主役となるのが七草にちかであることが示された。
1000カラットの耀きを放つ彼女らの物語は、暗い奈落の底で始まる。しっかり印象的な場面構成をしてくるシャニマス、推せる。
奈落からステージを望む二人のモノローグは、彼女らの在り方を対比している。美琴はまだしも、にちかについてはその真意が不明である。
今回のイベントコミュでは、この「ひとり」についての物語が始まったと言える。
ステージの上で「ひとり」になるにちか
続いて、平凡な二人組の芸人が現れた。彼らは凡庸で、無個性で、慣れあって、テクニックがない。散々な評価を与えるにちかであるが、彼らがにちか自身の暗喩であることは明白だ。
その後、中途半端なところで練習をやめて中華屋に行くことにして帰る彼らを、にちかは「最悪」と評したが、それはまさに先だって自分が美琴さんとやりたがった行為に他ならない。あまつさえそれは断られてしまっている。
目の前で繰り返される馴れ合い――仲良くしたい――というありのままの自分の願望が現前したその姿は、あまりに凡庸で、つまり美琴の隣にいるには余りに似つかわしくなかった。にちかは嫌悪感を露わにする。嫌悪感の中心にあるのはストイックな美琴に相応しくないと思われる自分なのだ。
引き続いて現れたのはバイト先の先輩である。
彼女はSHHisとして活動を始める以前からにちかの知り合いである。彼女はパフォーマーなどではなく、にちかの凡庸な日常の一部である。美琴のストイックな生き方に生活(生活感という言葉に表れているような宿命と相反する平凡な習慣などに関連する意味のそれ)が存在しないことを念頭に置けば、「バイト先」の先輩という存在そのものが生活の象徴であると言える。従って、このバイト先の先輩は、にちかの生活を象徴している。その彼女は芸人たちの平凡さを歯牙にもかけなかった。それだけでなく、その先輩がにちかを揶揄するために言った、「お笑い評論家になったの」という何の変哲もない冗談は、相手への客体化の要素を含むがゆえに、にちかを狼狽えさせた。ここで彼女が、どのように他者に見られるかということに敏感であることも描写されている。(こういうさりげない描写をするところ好き)
そしてその後、「にちかはシーズだもんね」という今回のイベントコミュの主題となる言葉を突き付けた。
この問いの後の表現は、総合芸術としてのアニメーション要素を見せていた。少し見開かれ、そして泳いだ目、食事の誘いを断られた回想、そしてそれに重なる芸人の観察の投影するというオープニングを総括する一連の、短く、そして永い間をもって、にちかはようやく先輩の言葉に同意した。それも世間通りの批評である「実力派ユニット」という文句を確認するように添えて。
そしてオープニングは、平凡な二人の芸人――美琴さんの隣でユニットの活動を前提にしなくても慣れあって仲良くしたがる自分の願望の投影――に対する、甚だしい否定をもって強烈に結ばれる。
第1話:「Ⅱ」現状のにちか――美琴さんの隣に相応しい存在の模索
第1話では、告知のために出演した昼の情報番組を中心として、オープニングで示された自己のあるべき姿についての悩みをより詳細に説明した。
まずはそもそもの出演動機だ。シャニPは告知の良い機会になるということで昼の情報番組の仕事を取ってきた。にちかは「最近こんな仕事ばかり」であることを不満に思っているものの、それを口に出さない。代わりに美琴がどのように考えているのかを聞き、その上で「美琴が良いというなら」と承諾した。
続く番組内での受け答えについても終始この調子である。その理由も、やはり美琴の足を引っ張れないからという理由に尽きる。全ての言動が美琴の目にどのように映るのかということを念頭に行われる。
にちかは美琴に対して、実力的な不足を感じているだけでなく、生活の全てを犠牲にしてまでステージに懸けるという美琴の尊敬すべき態度に圧倒されている。美琴を前にしたとき、バイトもするし学校にも行く、当然の生活に塗れた自分の姿が「平凡」に過ぎるものとして映る。
美琴の目という鏡に映る自分の姿はあまりに美琴に似つかわしくないのである。
そして続く挿話は初めてのテレビ撮影だった。
当然緊張するにちかは二人きりの楽屋でも落ち着かない。この緊張の原因は、身のやりようが分からない状況に置かれたことだ。(別のユニット、ストレイライトの和泉愛依が緊張しやすいという性質は、彼女の著しい客体性に基づいた設定である。)
身の処し方が、つまりその場に相応しい振る舞いが分からないにちかは、自然とコミュニケーションを取ることを望んだが、美琴は勉強を始めていた。
この番組の前は手持無沙汰なのだと美琴は笑っていたが、勉強というやることがある美琴とにちかの手持無沙汰は完全に別のものである。ここでにちかには葛藤が発生した。なぜなら彼女は構ってもらわないと緊張を解消できずに困る状況だったのに、美琴にとって最も良い振る舞いは勉強を始めた人に対する対応、即ち一人にしてあげることに他ならないからだ。
結局、自分の意向ではなく美琴の意向と思われる行為を選択した。十分あるはずの飲み物を買いに行くと言いおいて部屋を出たのだ。
部屋を出たにちかは、廊下に漏れ聞こえる「仲良し」アイドルの声に耳を傾けているところをシャニPに発見される。
このときのにちかは、思う存分の緊張を吐露する。そこには当たり前の不満があった。
場面は戻って昼の情報番組で、美琴は無難でスポーツ選手のようだと言われるような受け答えをしていた。そして美琴の隣にいるのに相応しいようにと、にちかもそれに続いて無難に振る舞う。
しかしスタジオ裏では、PRに前のめりな(前のめりに見えることが分からない)美琴に対するシャニPのフォローがあるも、番組のディレクターからは面白くないという評価が下されている。
そして一瞬回想に入り、この仕事を「快諾」した美琴の、「ステージのためのPRになるならいい機会じゃない」という言葉で締めくくられ、この話は終わる。
第2話:「Ⅲ」バックダンサーの参加――自動演奏のピアノとテレビの仲良しアイドル
この話では次回のフェスでSHHisにバックダンサーが付くことが決定し、それによってにちかの所在なさがさらに強く意識されるようになる。本イベントコミュを通じて最もストレスフルな話である。
コミュは自主レッスンのためにレッスン室に向かう美琴がショッピングモールを通っているところから始まる。朝一番からの打ち合わせで削れてしまうレッスンを補おうとの意図らしい。
モールでは自動演奏のピアノがメンデルスゾーンの「情熱」を鳴らしていた。これは今回のイベントコミュの主題ではないが、今後明らかに重要となるモチーフなので覚えておきたい。
ところ変わってレッスン室では、にちかが先んじて自主レッスンの準備をしていた。彼女もレッスン時間を確保しようとのことらしい。ピアノを鳴らしてやや下手な声出しをしている。そこにやってきた美琴に「早いね」と挨拶を受けたにちかは、ストレッチをするからと明らかに途中であった声出しを止めてピアノを譲ろうとしたが、美琴はストレッチから始めたいとのことだった。
にちかは静かな早朝のレッスン室でメトロノームの無機質なテンポと囀る鳥の声を聴きながら平穏に満たされていた。
このレッスン室でにちかが感じた束の間の平和とは、わざわざ早朝にレッスンするという意図が一致したことや、同じ時間、空間で、ストレッチという同じ行動をしていることによる平和である。美琴の傍にいる人間としての相応しさという観点から、このときは第三者の評価から自由であり、さらには行動の一致という状況もあって美琴の隣にいる自分として、にちかは完全に満たされている。
そこに、本日は打ち合わせの予定まで会わないはずのシャニPがやってくる。彼がもたらした「朗報」はにちかの束の間の平穏を粉砕した。次のフェスではバックダンサーが付くというのだ。さらに彼らの中には美琴との知り合いさえもがいるらしい。美琴の隣りにいる自分を判断する他人の目が増えることも、ダンサーという美琴の隣に相応しいであろうパフォーマーが現れることも彼女にとっては危険である。
美琴が「断る理由なんてない」と喜ぶのを尻目に、にちかは動揺を禁じ得ない。結局、昼間の情報番組の出演と同じように断ることができなかった。
場面が変わってバックダンサーとの合同レッスンでは、にちかが知らない美琴の姿を明らかにしていくダンサーたちを見ることとなった。そして最高のステージを作ることに専念している美琴は、彼らとダンスについての相談によく乗っていた。
一方でにちかはひたすらに疎外感に苛まれていた。彼女は知らない美琴に相応しくあろうと心掛ける態度を取り続けていたが、ダンスの技術的な理論などが分からず会話に参加できない。さらに、自分の実力が劣っていることも確認できてしまった。この状況ではにちかは明らかに場から浮いてしまっており、つまり美琴の隣にいるのに相応しくない。
暗鬱な気持ちに包まれるにちかであったが、このときの彼女はこれまでに示されてきた在るべき姿の分からなさに打ちのめされている。本コミュにおいては美琴さんの隣にいるのに全くもって相応しくない自分が表現されている。
秀逸だったのは、水を飲むという独り言をにちかが漏らしたことであった。水を飲むという行動は誰にでも共通するものである。それによって、にちかは最低限この場所に相応しい人間であることを何とか確認しようと独り言を漏らしたのだ。これは無意識下で行われる、決して珍しくなくて強力な防衛機制である。しかし当の美琴は水を飲むのを忘れるほどストイックな人間であり、その涙ぐましい策すらにちかを守るに足りない、という言外の皮肉に満ちている。彼女が飲んだ冷たい水は鉛のように重かったに違いない。
徹底して彼女はこの場に相応しくないのだと読者に突き付けるこの場面構成を思いついたライターは、非常に職務に忠実な素晴らしい性格をしている。
そして仕事を受けた場面に立ち戻る。
バックダンサーが付くことを「問題ない全然。」と強がる形で受けたにちかと、喜びながらも振付の問題に言及する美琴。にちかの強がりは完全に足場を失っていた。
そして苦しい時間が終わって、七草家のアパートの一室でテレビを見る七草姉妹。にちかはオープニングでもそうしたように、テレビに映る「仲良しアイドル」という自分の願望の投影を、美琴の隣にいるのに相応しいアイドルとして批判する。「みんなああいうのが好きだ」、「日本人はダンスに向かないのかも」などといったような稚拙な理論付けは、美琴の傍にいられる理論だった人間としての自分を作ろうとする行為である。
しかしこれは同時に絶え間ない自己批判の手続きであり、それを見かねたはづきはテレビを切った。にちかは精神的な安定のための姑息策を妨害されたことになり、耐えかねて河原に練習に向かう。
そして夜の河原で一人練習するにちかは「ラッキーの時間が終わってしまう」ことに「ヤバい」という危機感を示す。
ここでいうラッキーの時間とは、分不相応な自分が幸運にも素晴らしい場所にいられるという状況を指していることが分かる。以前のこれはアイドルであること自体であったが、今回は「住む世界が違う」美琴さんのユニットメンバーであることに他ならない。
一方で当の美琴はひたすらにステージのための準備を進めていた。そして夜のレッスンからの帰りに、冒頭のショッピングモールで鳴る自動演奏の「情熱」に声をかける。過去の自分を思い出して「上手ね。」と笑う美琴の声には翳がある。
第3話:「Ⅳ」ライブハウス――取り繕いの破局
本コミュでは、ここまでのコミュで描き続けられた、美琴に相応しい人間であろうとするにちかの物語の緊張が、最高潮に高まり破綻を迎える。本イベントを通して最も劇的なコミュである。ここからシナリオを描き始めたとさえ思われるような完成度がある。
本コミュは、練習風景を回想するにちかから始まる。練習が一段落ついた休憩の入りで、息を切らして精一杯の自分と、涼しい顔で次のことを話し始めているダンサーたちと美琴が相対化されていた。さらには美琴のユニットメンバーとして相応しい向上心の高い人間であろうとして、トレーナーに評価を聞きに行き、案の定婉曲的に実力が劣っている現実を突きつけられる。
回想するにちかはバイト先にいた。美琴には存在しない生活の象徴たるその場所で、美琴よりもはるかに自身と親しい先輩と話していた。その彼女が浮かない顔をしたにちかを元気づけようと、ライブハウスのデイイベントに誘った。
最先端の評判の良いDJが来るから刺激になるとの話もあって、(向上心の高さは美琴の隣にいる人間には必要であるように思われる。)ライブに行くことに消極的でありながらも、食い下がる先輩の提案をにちかは断れなかった。
一方の美琴も、彼女の知人たちと同じライブハウスで同じDJを待っていた。彼らの語らいは、パフォーマーの最前線でいることに関する美琴と共通の苦悩を語る。客観的に見て彼らのほうがずっと美琴に似つかわしく思われ、にちかの苦悩に説得力が増している。
そして美琴は勧められたアルコールを事も無げに断る。そして彼らも好意的にそれを受け取った。
そしてライブハウスにやってきたにちか一行であったが、彼女らはチケットがなく入場できなかった。バイト先の先輩がSHHisの名前を出すことで入場できたが、ユニットの名前を自分の都合のために利用するというその行為は、美琴の「ステージのために全てがある」という在り方に相反するものであり、にちかは嫌がる。
しかしライブハウスの中で見ず知らずの人や先輩たちに囲まれて話す時間は、――構われる時間あるいは注目される時間は――居場所がなかった近頃のにちかには余りに心地良かった。暗く妖しいクラブの空気の中で、彼女はひきずられるようにして、彼女が必死に距離を取ろうとした馴れ合いの中に飲まれていく。
そして高まった物語の緊張は、先刻の彼女が示した、SHHisの名前を使うことへの高潔な忌避も忘れて、美琴が勧められた飲み物を断ったのと対照的に、乗せられるがまま軽薄極まる「シーズに乾杯」という挨拶を高らかに述べることで最高潮を迎えた。
その美琴に相応しいかという観点では、低劣極まるこの一部始終が、その美琴に目撃されていた。
その乾杯を目撃して、そして何事もなかったように始まったステージに目を向けた美琴は、にちかに何も言ってくれなかった。注意でもしてくれれば、せめて最低だと罵ってくれたなら、どれほどにちかは苦しまずに済んだだろうか。美琴に相応しい自分を模索するこれまでの日々の努力も、葛藤も、不安も緊張も、矛盾も自己否定も、その全てが完全に彼女を捉えて絶望に叩き落した。
長い付き合いを思わせる真剣な美琴たちと、その日限りの薄い馴れ合いをするにちかたち、最悪なこのメンバーという暗喩が実に良い。
第4話:「Ⅴ」大人たちと子供たち── 成熟と未熟
本コミュでは、これまで主に描写されていたにちかの客体偏重の在り方という未熟さだけではなく、第3話まででにちかが徹底的に追い詰められる原因になった、美琴の主体偏重の在り方にも言及された。
本コミュは、シャニPが美琴にリフターを用いた演出を提案するところから始まる。美琴はこれに疑問を呈するが、これは観客と同じ目線に立つためのものであった。そして説明されるまで、美琴はこの演出意図を汲めない。
そして他に気になることはないかと聞くシャニPであったが、学校で思い悩むにちかを視聴者に思い起こさせるカットを挟みつつ、美琴は特にないと答えた。
ここでは、美琴が誰かの目線に立って考えることができないというアイドルとして、あるいは生活を生きる人間にとして重要な能力が、どうしようなく欠けている様が示されている。
そもそも10歳近く年の離れた少女が緊張しているのを先輩として安心させてやれないのは、当然ながらコミュニケーション不足という失敗であるし、無力感に陥るメンバーをフォローしてやれないことは適切であるとは言えない。パフォーマンスという一瞬の世界だけに生きてきた、より正しくは生きることができてきた優秀な美琴は、気を遣うことを学ぶ機会になる実力による絶え間ない敗北や日常生活を知らない。
それが人間的な特徴の範疇に収まらずに、人の注目を集めないといけないアイドルという客体的な職業にも大きく影響を及ぼしているということが、リフターの演出意図が汲めないというところに示されている。
場面はにちか側に移る。
明らかに荒んだ様子のにちかに対して、シャニPは、今どうしてほしいのか、あるいは彼女がどんな実力を持っているのかについて、明確な言葉をかける。例えば「シートベルトを着けてくれたら嬉しい。」、「にちかは上手いよ。」「テクニックも境遇も(ラッキーではなく)簡単に手に入るものじゃない」などだ。
これらは直近の美琴との関係でいつも所在なかったにちかにとって、これはずっとかけて欲しかった言葉たちであるに違いない。シャニP は パーフェクトコミュニケーション をつかった!(なんだこいつ……、ブンドドしていた男か……?これが……。)
にちかの混乱はアイドルを投げ出さない水準まで収まったものの、まだ根本的な解決には至らなかった。さらに理由を探るシャニPに、にちかは「みんなの目に映っていない」と答える。そしてモノローグでだけ「美琴さんの目に」という核心を呟いた。
一方事務所では、はづきがステージの準備に夢中になる美琴に甲斐甲斐しく世話を焼く様子が描写される。やってきた美琴に水を注ぎ、集中している彼女のためにテレビを切り、飲み切った水を注いでやり、と思い遣りを示している。そして最後に注いだ水の中にはレモンを入れていた。
レモンの差し入れをもらったことがあるという美琴に対し、「――あぁ」とすっとぼけながら、はちみつ漬けのレモンを差し入れていたにちかの姿を把握しているはづきは、彼女に献身と有り難みを理解するよう美琴に促す。そのレモンが手作りの、つまり人の思い遣りに満ちたものであることさえ、ステージに全てを懸けることで生活の中に生きていない美琴には初めて知ることだった。
そして場面は戻って、車中のシャニPが、「にちかだけでなく、美琴も自分を発見せねばならない」として話を終える。これは、主体と客体にそれぞれ偏る彼女らが、お互いの欠点を相補せねばならないというSHHisというユニットの主題に他ならないのではないか。
時間が経って、なお混乱したままのにちかは、客体的要請から行われる「自主練」に向かったが、事務所の狭い倉庫で練習する美琴の姿を認めて畏怖を覚える。誰かに見せるために行われているものではない美琴のターンに対して、それでもにちかが思わず口にした「綺麗」という評価は実に大切な、主体としての美というモチーフだろう。
彼女が夜の、およそ練習には向かないような倉庫という場所で、それもたった一人で、練習している。そんな、自分が感動させたいのだという確固たる意思を持った彼女の姿は「綺麗」だったのだ。彼女の練習こそが、にちかが半端な在り方で口にした自主練であったのだとも言える。
しかしにちかはもっと練習をと呟き、客体的な動機に依存する在り方は、何としてでも実力をというある種の覚悟を帯びて、さらに深刻化することでこの話は終わる。
第5話:「Ⅵ」リハーサル──観念からの脱却
この話では、リハーサルにて危険なパフォーマンスに走ろうとする美琴を止めるために、にちかは、ここまで一向に抜け出せなかった客体偏重の在り方から脱却することに成功する。
にちかがリハーサルの控室に来ると、既にダンサーと美琴との打ち合わせが始まっていた。ライブハウスの件で軽蔑されるに違いないので美琴に合わせる顔のないにちかは、一人でストレッチを始めた。そうするうちにリハーサルの始まりが告げられる。
続いて社長によるコマの大会の挿話が入る。
コマの大会というドキュメンタリーにて、優秀な主体を象徴する理論や知性といった実力と、愛される客体を象徴する注目と応援を主題とする話であった。コマの大会で評価されたのは実力ある主体であったが、これは美琴の回想として視聴者に語られるピアノコンクールの回想と対照になっている。
ここで、一面的にちやほやされる「想い」ばかりを持ち上げるだけでなく、積み重ねた努力が曖昧なものに打ち砕かれることの遣る瀬無さについても言及しているところが僕は好きだ。シャニマス、信頼できる。
そしてリハーサルの休憩時間、やはり舞台上で手持無沙汰になったにちかであったが、練習による実力の補完や孤独な状況への慣れ、そして美琴も一人で黙々と(孤独に)「綺麗」なターンをしていることなどから、今回は以前ほど取り乱さなかった。
孤独に練習を続ける美琴が何を考えているのか理解しようと持ち前の客体的素質を発揮し始めたにちかは、美琴のターンの模倣を始めた。
このとき、レッスン室で一人ターンをするにちかを見て、あるダンサーが現れる。彼女の助言により「綺麗」な美琴さんのターンに近づくことができたにちかであったが、何よりダンサーという美琴さんと同じレベルの人から声をかけられたということが大切であった。これはシャニPに吐露した「みんな」からの承認でもあったのだ。特に「ペンシルターン」という名称を教えてあげるという名付けのモチーフは象徴的で良い表現だなと思った。ここで一先ずにちかの客体化の飢え、つまり満たされない承認欲求は危機的状況を逃れたと言える。
そして休憩は明け、リハーサルはいよいよリフターの昇降に差し掛かる。そうしてようやく、にちかは美琴がペンシルターンの練習をしていた理由に気付いた。狭いリフターでターンしようとしているのだ。
リフターはごく狭く、危険な高さだ。ターンなど普通ならやってはいけないが、ステージのためなら彼女は何だってやる。危険なことでも誰かが心配するとしても。生活の全てを捧げてステージに懸けた彼女は確実にやるに違いない。
一瞬のうちににちかは、自分が先にターンすることを決断した。論理や明確な思考の存在は怪しく、どうすれば美琴がターンを止めるかが直感できたとしか考えられない。重要なのは、現場監督も、美琴も決して望まないその行動をにちかが選択したということだ。
ここまで美琴やバイト先の先輩を優先してきたにちかが、全てを懸ける美琴やダンサー、現場監督、現場に来ているプロデューサー、保護者でもある姉、その他多くの人々から決して望まれない不毛で危険なターンを、望まれないが故に確実な主体的意志によって行った。
にちかは失敗してリフターから転落したものの、そのターンは紛れもなく「綺麗」なターンであったはずだ。
また、この行動は今回のコミュの山場でありながら、同時にありのままのにちかが持ち合わせた、注目される客体の才能を持っていることを示した。
第6話「Ⅶ」閑かな夜の訣別──平凡な生活との和解
美琴のことが「見え」ていなかったにちかは、彼女がにちかを認めていなかったわけではなくて、本当にステージを最高のものにするために全てを懸けていたことがようやく確認できた。今夜は美琴のことを、にちかのことを、知っている誰かなんていない。目を閉じた美琴は、これまでと同じようににちかにどうあるべきかを教えてなんてくれなかったけれど、二人きりの閑かな夜のタクシーから望む街の、何の代わり映えもない生活たちは、それでも構わなかったんだとにちかに優しく教えてくれていた。
二人での練習風景に場面は移る。今回はにちかからの我儘ともいえるような希望で、美琴に練習に付き合ってもらっているのだった。美琴の意向を忖度ばかりしていた以前からは大きく心境が変わっている。
レッスン室が使えなくなった後も、美琴は練習の延長に付き合うことに積極的で、練習場所についても「(ペンシルターンの確認でもしない限りは)倉庫で練習なんてできない」と言ったりする。美琴は意外なほどに色んなことに無頓着で、ステージのためにということに関わるなら尚の事、にちかの意向を決して迷惑なことだと考えていなかった。
主体的になれたとはいえ未だに多少の引け目を感じるにちかであったが、美琴はにちかの不安に気付かなかったのと同じように、遠慮にも気付かない。そのまま自分だけしか使っていないスタジオに向かうタクシーににちかを乗せる。
静かなタクシーの中でやることのない美琴は、おもむろにイヤホンをつけて目を閉じ、そしてこれまでのようににちかは「ひとり」になった。
しかし、かつてのテレビ番組の控室にいたときとは違い、今のにちかの心は穏やかである。主体的であることを覚えたにちかの目には、久しぶりに「見る」街の生活が、鮮明に、ありのままに映る。客体偏重に陥っていたにちかは、「見る」という主体的行為から長らく遠ざかっていた。見えていなかった街の看板、灯り、人々――平凡な生活たちは、決して軽蔑をもって当たるべきものではなかった。今の彼女はこれらの生活のことを「綺麗」だと言えた。つまり生活の中にある自分を肯定してやれたのだ。
場面を移って、事務所では、夜遅くまで仕事をしているプロデューサーと、漏れる灯りを見て立ち寄ったというはづきが会話を始めた。今日のリハーサルの事件で興奮してしまったと仕事を続けるシャニPに、私も作業をしようかなと言ってはづきは話を促す。シャニPもそんなはづきさんにコーヒーを注ぐ。
彼らはSHHisの彼女らよりもずっと大人で、ずっと上手にお互いを思い遣ることができることが描かれている。
立ち戻って、美琴は地下のスタジオににちかを招き入れる。やはり気遣いが稚拙な美琴は、初めてのスタジオの得体の知れなさに緊張するにちかに気付かない。しかし、練習を終えてOKだと告げたあと、美琴は水を出してあげた。この行為によって思い遣る心という美琴の客体的態度の萌芽が示されている。
練習を終えると二人は自然に話し始めた。スタジオにあった機材を作曲のために使うと答える美琴はどこか歯切れが悪い。多才な美琴に対して、にちかは憧れを込めて「アイドル」だと客体化の言葉をかけたが、美琴はあくまでも主体的に「いつもそうなりたいと願っている」と婉曲的に否定した。
そしてそっと話を変えるように、美琴は弾ける曲はあるかとキーボードを指し、にちかは「ホームスイートホーム」を爪弾き始めた。そしてにちかが思い出を語り始める。過去の自分の家族の話は、かつて愛に満ちたアイドルであれた生活の日々である。ここでは暗に注目を浴び、愛される才能が天性のものであることが示されている。
身勝手な自分語りをしてしまったにちかは、急いで気恥ずかしさを誤魔化すために自分を「アイドルができずに邪魔をしている」と言ったが、美琴は「邪魔だと思ったなら練習するしかない」、「アイドルじゃないと思ったら、もうアイドルじゃない」、「アイドルではない人間と組むことはできない」という厳しい言葉を口にした。先刻の「いつもアイドルでありたいと――」という言葉を踏まえても、にちかに向けてのというよりもむしろ自分に向けての冷たさがあるように思われる。「良いステージにしたいの。じゃないと感動も納得もできないでしょ」という美琴の言葉の中で省略されている主語の、納得できない人間が誰なのかは重要なことであるように思われる。
さらに話を変えるように美琴が鳴らしたピアノの旋律はホームスイートホーム、曲を弾きながら、実力がうかがえる歌声で旋律を口ずさむ美琴に、にちかは自信なさげに探るようなファルセットのオクターブの旋律を重ねる。うーん、関係性が出ていて非常に好き。だし、今回の主題によく沿っているところが演技指導としてすごく良いよね。
この平和なオクターブを通して、彼女らはお互いを気遣い、探り合い、教え合うことで客体化した。ここで彼女らがどのようにあるべきなのかをお互いに歌うことを通して示すことで、今回のイベントコミュの主題が解決した。
その裏では大人側のやり取りでは、実際問題として最も重い、今はよくともこれからずっと生きていかねばならないという現実の話が差し挟まれたのに対して、シャニPの口を借りて「探しますから」と答えさせられている。こわい。あと多分これが切実なのは美琴の方で、どうしたってステージで死ぬことができない彼女は、慣れた人間にとってさえも本当に難しい「生活」を強いられる。
そして帰途のタクシーで、にちかは今度は行く道を自分で決める。運転手の目を憚らず歌う。彼女はもう馴れ合う平凡な芸人志望の二人組を――仲良くしたがる自分の願望を――軽蔑しない。
――けれど、彼女は自分の平凡と訣別することを決めた。
何かに強いられたわけでもなく何かに焦ったわけでもない。馴れ合っていたいとさえも思うけれど、それでも他の誰のものでもない自分の意志で、美琴の隣に、馴れ合わない一人の自分として立つことを決めたのだ。
エンディング:「0 0」─ノー・カラット──カッティングの果てに
終わりは次の始まりを示唆する現実で締めくくられる。
ステージのために全てを捧げた美琴は客体性を失い、並び立つことを決めたはずのにちかは一人になった。耀くことを求めて研鑽し続けた先にあったのは、その願いの本質を損なうほどの摩滅であった。
エンディングはSHHisの成功をもって始まる。様々な実績が語られ、その中でもフェスでの成功が語られる。
あのリフターを使う演出で、にちかが提案したアカペラという演出が大いに効果を上げた。練習をするという主体が可能にしたこの演出であるが、それを思いついたのは相手の目線になって考えられる彼女の客体的資質に他ならない。
にちかの心からの「いいステージにしたい」という言葉が、今回のイベントコミュでの成果を総括している。
続いて奈落にて、「ステージの上に全てがある、と言いたい」と言い切った。
そして二人の成功を見て心中穏やかでない人物がいた。カミサマである。病んでいるらしい。
ある日事務所に向かう道を行く二人は、ショッピングモールで自動演奏のピアノを発見する。いつも耳を傾けて去っていった自動演奏のピアノに、今日の美琴は腰を下ろした。鳴らした「情熱」に、住む世界が違うと感動するにちかに対して、自分より優れたピアニストは数え切れないほどいると美琴は答える。
そして人の心に届くかは分からないと言いながら弾き始めた「ホームスイートホーム」は、自然とにちかとの連弾になる。実力を高めるしかないと考えていた美琴にとっても、にちかとの共演は、きっと誰かの心に届くかもしれないのだと希望を持てるものだったのだろう。
即興で行われた「ホームスイートホーム」の連弾は伴奏者が下手なにちかであったりして、自動演奏の暗く、激しい、完璧な「情熱」よりも明らかに稚拙であったが、しかし優しく、そして明るくモールに響いた。
しかしこのまま終わらない。
流れ始める「OH MY GOD」、popsという現代音楽の不穏
現れ始めた人気の差という現実
美琴を襲う既視感
隣に誰もいない孤独
オープニングへと回帰してしまった奈落のモチーフ
そして耀きはその本体を失い、暗い奈落の闇に帰った。
まとめ
全体として非常に完成度の高い素晴らしい作品だった。
シナリオでは、アイドルという求められることが矛盾した存在の「在り方」を主題にして、説得力と緊張感を保った構成で分かりやすく表現してくれた。またにちか目線の構成にすることで主体偏重の美琴の、理論に満ちた努力の時間を物語にするためには、一人では余りにコンテンツに乏しく、にちかの視点を通さないではいられない、というメタ的な示唆も生まれていた。
また、対照的な象徴性を持つ二人を出すことで、シナリオは常に対比と暗喩に満ち寓意に富んだ行間の多い脚本であった。評論をするだけでも省略した箇所は大変多かったので、製作者はさぞ大変な仕事だったろうと思う。
そしてオープニングからエンディングの孤独まで、常に説得力を失わない頑強な設定を練ることができていることも評価したい。突っ込みどころがない質実剛健なその構成は、遊びの面白味こそないが、素晴らしい実力を示しながら、ファンが好き勝手に遊べるだけの安定した地盤になっている。陳腐なギャグに逃げたりしないその姿勢を、今回のストーリーに重ねることを許してほしい。
他には、これまでのシャニマス全体を通して一貫していた、シャニPが個々人の主体を個性として肯定的に考え続ける姿勢と、いつか対立してしまうアイドル以降の人生の処し方という現実的な問題とのせめぎあいに言及したというところにも注目したい。アイドルの製作者にとって非常に都合が悪くあまりに難しい主題を取り上げるということ自体に期待している。
シナリオ以外では、アニメーションやBGMが特に秀逸であったように思う。そのとき表現したいものの効果を最大化するべく確実な演出効果が上げられていた。アニメーションは、泳ぐ視線や和らぐ表情など、選択できる組み合わせの中で適切なものを吟味して仕草を作っていた。BGMは印象的なものをライトモチーフ的に扱い、冷たく暗い「情熱」という古典、牧歌的な「ホームスイートホーム」、どこまでも不安定で破壊的な現代音楽としての「OH MY GOD」を実に上手く使っていた。ライブハウスのところで別の現代音楽を楽曲として採用していたのも、ストーリー上の自然さもさることながら、エンディングの劇性を高める効果を上げていたように思う。
さらに声優さんの演技も非常に良くて、今回のシナリオにおける最も大きな破綻であるライブハウスのシーンでは、特に七草にちかの描写にとって非常に重要な軽薄さが表現されていた。確かにあんなところを見られては生きてなどいけないと思わせるだけの説得力があった。またごく一瞬とはいえ、カミサマの必死な演技も好きだった。
簡潔に言うと全部良かった!褒めるところはたくさんあるけど不満なところはないや!お疲れ様です!!サンキューシャニマス公式!!!!
「sSSR樋口円香【雨情】」の恒常化だけよろしく!!!!!!!!!!