死ぬとか逝くとか簡単に言うなと言われても、行き着く先は死だよ
ありんごです
前回の記事がありがたいことにnoteを始めてから最高数のスキをいただいています。嬉しいです。まだ読んだことがなければ、ご覧いただけるととっても嬉しいです
私もこの記事が好きです
記事を書いていて改めて気づいたのは、私は人よりたくさん「死」について言葉にする傾向があること
死について書こう!と思っていなくても、何について考えていても、死に言及してしまう
ふだん死についてどう考えているかな
死にたいわけじゃない。でも、死にたくなる時もある
死ぬわけないと思っているわけじゃない。でも、今は死にたくないなって思う瞬間がある
そんなふうに考えを巡らせているのはたしかだ、日常的に、とめどなく
だから、ともすればカジュアルに死を口に出す私は周りの人を驚かす
たとえばこんなことをさらりと言う
「でも、それで死ぬわけじゃないからやってみよう」
「死んだって良いって思うくらい幸せ」
「叶わないと知って死にたい気持ちになった」
「ぽっくり逝くところだったよ」
「いやーそれは死にたくもなるね」
「あー死ぬのかなって思ったら死ななくて今ここに生きてるのよ」
人を驚かせたいわけじゃない。でも、常に考えてしまう。今から何を食べようかなとか、あの人のこういうところが好きだなとか考えるのと同じくらいのハードルで、死について考えている
簡単に言うんじゃないよと嗜められても、やめられない。簡単にって言うけどさ、正直に表現するのをやめられない。やめたくないの
死って思ったよりすぐそこにあるなあ。すぐそこというより、生きると死ぬは裏表だなあと、思う
生きることについては激しく語るのに、死ぬことについてはどうして忌避するのだろう?忌々しく、避けるべきことだから?
でも、生きるなら死ぬことは避けられないのにな
死がデリケートな話題なら、生だってデリケートな話題だよと思う
だからどう生きるか誰かが語ったものを見て、なんだか死にたくなっちゃう人だっているわけだ
生きるを語れば、死ぬを語るも同然だ
こうして日々考えても、行動しても、生死についての私の中の議論はまとまらない
でも一つだけ、ずっと思っていることがある
一人一人がそれぞれ満足に生きられる選択を、尊重できる世界になりますように
その先にある死に、自分のやり方で向き合えますように
生き切ったと思えますように
ありんご