有村奈都
写真記事のまとめ
人と住むことのしんどさは、それ以上の小さな単位には切り分けられないと思い知った。二人分の皿を洗うこと。床に落ちている髪の毛が、自分のものと異なる色をしていること。隣の部屋から断続的に啜り泣きが聞こえること。それらをいくら集めても、"人と暮らすこと"を完璧に構成しえない。同棲というのは、一つの箱に二つの人生が入っている状態。私の人生が私だけのものではない状態。失われていくコントロール感覚。隣の部屋の啜り泣きが、コンクリートの塊となり体に巻き付いて、私を温度のない湖に沈めていくこ
photo @fuji_street
こんな日に飛行機が飛んだら跡形もなく吸い込まれてしまう、と思うほど紺碧の空だった。擦り傷から滲み出す血を彷彿とさせる、黒々とした青。背の低い雑居ビルの上には、百貨店のショーウィンドウを飾りつけるバルーンのように、入道雲が景気良く迫り出していた。このところ、毎日入道雲を目にしている。夏の真っ盛りではなく、終わりの時期に発生しやすいのだろうか。二十余年を生きていても、空模様という至って素朴なテーマにさえ新たな発見があるという事実に、わずかな爽快感を覚える。挑発するように揺れてい
シャワーを浴びていると、雨が降り出した。梅雨はとうに明けているが、このところ夕立が多い。磨り硝子の小窓から、紙幣のように黄ばんだ空がのぞいている。迷い込んだ小蝿が偶然にもその窓をみつけ、彼にとっては未曾有と思われるこの浴室の、おそろしい水害を逃げ出していく。街には、不安を煽るような、敬虔を呼び覚ますような、不思議な光が降り注いでいる。ややもせず外は暗転をはじめる。雨足は増す一方だ。背を滑り落ちる湯と、あやまたず垂直に地を打ちつづける雨が、渾然一体となっていく。赤と紫のカラーシ
思考の流れは漫画や本の心情描写みたいに綺麗なものじゃない、と誰かが言っていたけれど、おおむね一般的にこうだというパターンはあるのだろうか。私の脳内は常に会話の形を取っている。過去の会話を無意識に反芻する時もあれば、特定の人を思い浮かべて、会話のシミュレーションをしていることもある。割合としては後者の方が多いかもしれない。 頭のなかの声は、健康であればあるほど遠ざかっていく。逆に、生理前だったり、低気圧だったり、薬を切らしていたり、なんらかの不調があると、すぐに飽和する。ぽつ
アラームが鳴り空中に倒れ込む抱き止められぬまま髪を梳く そばかすに詰まりし熱を逃すためシーツを波のごとく引き寄せり 薄い袋が毎日足に絡みつく 仕入れトラックで目醒めなくなる 大きな犬に抱かれるように布団抱く 冷房に少し鳥肌が立つ 漏れいづる火焔のごとくうすあおいグラスの口にほつりと一味 月経はポストあふれし手紙もて暗き戸口に立つ配達夫 御神輿が月高き坂をのぼりゆく湯殿は蛇口の悲鳴にみちて 充電の穴わずかずつ緩み夏、朝には布団を押し付けあって 柚子漬けの瓶を落と
軽蔑します。 最後に会った日の、あなたの言動に対する落胆は、あなたなりの善意を拡大解釈して差し引いたとしても、まだ余りあります。 あれはきっと、出会って数年間、繰り返してきた落胆の総括でした。おかしな期待をかけてしまう私を断ち切ってくれたということであるなら、感謝すべきかもしれません。 もう二度と、会うことも言葉を交わすこともありませんが、あなたが理解しえなかった絶望の手ざわりを、ここに残しておきたいと思います。あなたに関する記憶のすべてが、噛み砕かれ、均一な砂つぶとし
photo by くろのさん
ごあいさつ こんにちは、有村奈都です。 日ましに透きとおっていく残暑のなかで、いかがお過ごしでしょうか。 私は焦がれつづけた愛機を手に入れ、十数年ぶりに撮る側として写真に取り組んでいます。 このたび筆を取りましたのは、私にとってのあらたな船出を、そしてあらためて常日頃の感謝を、いつも見守ってくださるあなたにお伝えしたいと感じたためです。 私はこの度、あたらしく撮影会を立ち上げました。 立ち上げのきっかけは、写真に触れるなかで、時の流れの速さに気づかされたことです。
家の裏手に、車一台がやっと通れる狭い道路がある。朝が来ると、東側の背の低い家々が道いっぱいに影を落とし、日向と日陰の縞模様が織りなされる。 帽子を目深にかぶってこの道を歩くと、四角い日陰のかたまりが、誰も居ないエレベーターのようにゆっくりと視界をよぎってゆく。 夏の季節さえ、美しく生きられたら何かに勝てるような気がする。海老と枝豆のジュレを口に運びつつ、そんなことを考える。切れ味の良い出汁の風味に程好い酸味をきかせたジュレは、同居人が家に招く友人のために試作を重ねたものだ。
商店街の中心に位置するこの部屋は、真夜中でももやもやと明るい。窓から手の届きそうな位置に街路灯があり、セブンイレブンは24時間休まずに、業務用冷凍庫のような仄青い光を道路に漏れさせている。越してきた当時は、この明るさに戸惑った。寝付くのにずいぶんと難儀して、部屋選びのポイントはつくづく多い、と感じ入ったものである。 それが今や、日の変わる一時間前には必ず消灯して、朝の九時までたっぷりと寝る優雅さを獲得した。パートナーの手料理で心を満たし、過食嘔吐の繰り返しから卒業した
夜中の三時頃に目が覚めて、二人はセックスをした。一連の行為がおわると彼らは互いに背をむけて、汗拭きシートで体液の付いた手を拭った。獣のにおいと柑橘の香りが入り混じる闇のなかで、女は、仰向けに手足を投げ出して汗が引くのを待った。そうしてどれほどの時間が経ったのだろう。彼女は、場所や時間、いわゆる座標というものが自身からゆるやかに遠のいていくのを感じていた。女の意識は元居た場所、つまり、この小さな島国の、人口過密な首都の東寄りに位置する畳部屋から遠く遠くのどこか、果てと呼ぶのに
画面に並んだ彩度の高いフリー画像の数々。青空に向かって差しのべられた手のシルエット。真っ赤なマントをはためかせ太陽をながめる背中。淡いピンクの毛布にくるまれ、こんこんと眠りつづける子猫。画面をスクロールするたびに、私は軽く絶望していた。まあでも仕方がない。Webメディアが本業ではないのだから、多少の壊滅的センスには目をつむるべきであろう。と、自分に言い聞かせつつ「ご費用」のページを開くと、絶望は決定的なものとなった。初回75分1万円・通常50分1万円。べらぼうに高い。高いし
今日は中学時代に通っていた塾の先輩と約束があった。彼女は今、東大の院でプロジェクトに参加していて、研究員として日夜、シャーレのなかのみえない何者かとたたかっている。休みは週に一度あるかないかという多忙さなので、向こうにあわせて御茶ノ水へ出向くことになった。 かれこれ十年来の知己だ。神経質で、待ち合わせに必ず余裕をもってくる性格は熟知している。だから遅刻常習犯のわたしも運命にあらがわんばかりの覚悟でいそぎ家を出て、十分前行動に成功した。が、改札を出ると、やはり彼女の姿はす
今日、八月二日は父方の祖父の葬式だった。私は祖父が苦手だった。底抜けに良い人で、彼と話していると、虫歯みたいに染みついた自分の汚さが目につくから。幼少期、祖父が竹筒を割って流しそうめん機を作ってくれた。真っ直ぐな竹の滑り台に水とそうめんを流すシンプルな構造。猛暑日で、それほどそうめんを好きでもない私と弟は、微妙な反応だった。そんな反応しかできないことに罪悪感も覚えていた。その時の写真が残っているわけでもないのに、強い日差しに目を細めて、不機嫌半分戸惑い半分の顔をする自分たち兄