山村日記 vol.2
2024/4/28
かわいそうという言葉が苦手な時期があった。たぶん小学校の頃。かわいそうってなんだよって思っていた。言う側も言われる側も不幸にみえた。
大人になるにつれそこまで言葉を真に受けることはなくなっていったけれども。
このあいだ、昨夏ぶり二度目の福島に行ってきた。今回は、福島に住むおじいちゃん兼友達に念願の山菜採りに連れて行ってもらった。
山菜採りというと、山菜をポキポキ取ってカゴに入れて収穫し山から降りるという遠足気分なものを想像していた。
しかし実際の山菜採りはすごくワイルドなものだった。山菜が採れそうな場所付近まで車で行き、そこから藪の中をかき分けて進む。途中バラの木が刺さってかなり痛いし顔の周りにはずっと虫がくっついてくる。
今回の山での狙いは、タラの芽とコシアブラ。最初は他の草木と見分けがつかなかったけれど、何時間か山にいるうちにだんだんと目が慣れてきた。
木陰の方で白くまっすぐ高い木に、葉っぱが5枚。
少し遠く高いところにコシアブラを発見。
おじいちゃん兼友達が「あれ、天ぷら用にいいぞ〜」と言うので、小川を石の上を踏んで渡り、急斜面を登ってかき分けてやっとこさコシアブラの木の根元に辿り着く。そこから杖を引っ掛けて木をしならせて、手で山菜部分をポキっと採る。一つ採るにもすごく大変だ。
また、立派に高く育っていて届かない場合は、ノコギリで木を切って倒し、てっぺんの栄養ありそうなコシアブラを収穫した。
山菜をカゴにポイポイ入れていくイメージとは大違いだった(これでも初心者コースらしい)
初めは、こんな神々しくたっぷり陽を浴びて育った山菜をとってしまっていいものか躊躇していた。さらには、収穫するために木を切るのにはかなり抵抗があった。でもおじいちゃん兼友達は容赦なくどんどん進んでいく。(山で生きるには普通のことなの?)
山菜の木を切るのはかわいそうだと思ってしまった。でも、スーパーで買った肉や野菜をもりもり食べている普段の生活とその感情は矛盾していて、自分が偽善者のように思えてきた。やっぱりかわいそうって思う側も嫌な感じがするな、と子供の頃感じた違和感を久しぶりに思い出した。
実際は、山菜の木を切っても大丈夫らしかった。毎年適切な部分で切ってあげるとそこから二股に分かれ育っていくので、むしろ必要なくらい。
おじいちゃん兼友達曰く、切るのはいいけれど、一つの木から全ての芽をとってしまうと次の成長に影響を及ぼしそうで忍びない、のでまだ小さいものや下の方についている山菜たちは残すことにした。
山に入って採るけれど次の成長のために少しは残す。忍びない気持ちと、山菜をとって食べたい気持ちがいいバランスで共存している。
山へ行く途中、おじいちゃん兼友達のご親戚に一瞬ご挨拶したら、梅干しやほうれん草、行者にんにくなど大量にもらってしまった。
ここにいる人たちは、どう思われたいとか損得勘定とかではなく、純粋に親切にしてくれることを実感する。
山菜の一部を残すことも、お土産も、あげる、なんだけれど、なんか何かしてあげようと頭で考えてしていない感じがいいかんじ。
そしてまたおじいちゃん兼友達からも、山菜や梅干しなど大量にお土産用としてもらってしまった。
私がもらっても仕方ない気持ちになってきたから今回は人にあげることにした。
実は陶芸でもあげるっていうのをしたいと最近ちょうど考えていた。販売するだけはつまらないし。何かつながった感じがする。