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山村日記vol.1 おじいちゃんが増えた話
皆さんはおじいちゃんが増えた経験はあるだろうか?
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私の実のおじいちゃんたちはもうこの世にはいない。
4月に行った初個展の原点は、2年前に亡くなったおじいちゃんと過ごした最期の時間にあった。
大好きだったおじいちゃん、もうどう頑張っても会えん。
ただ、私は幸運なことに、新たにおじいちゃんが増えたため、この場を借りて紹介させていただこうと思う。
新たなおじいちゃんは元々会社の先輩で、2年ほど前に定年退職した人である。たしか、今でいうMBTI診断のようなものを会社でやったら、彼と私はすごく似たポジションにいて、年は40弱離れているけど性格が似てるねハハハみたいな話をした記憶がある。彼は退職したあと福島のご実家に帰られたと聞いた。そして、ひょんなことから、そのご実家に別の先輩と遊びに行かせてもらうことになった。
2023年9月2日、この日が記念すべき私のおじいちゃんが増えた日である。
彼は私が陶芸をしているから相馬焼の窯元を見せなきゃといくつかの窯元を事前に下見してくれていた。というか、窯元だけでなく、道の駅や記念館や蛙の池や山の散策コースなど、全部下見してくれていたようだった。
事前に綿密なスケジュールが送られてきたり、何度か電話があったり。私はこんなにしてもらって申し訳ないと思いつつ、その計画してくれている姿が愛おしくなり、楽しみが増していった。
福島に着くと、ご実家の畑で野菜を収穫したり、自家製梅をいただいたり、松茸の茶碗蒸しを作ってもらったり、山歩きをして頂上でいちばんうまい煙草を吸ったり、イワナ釣りをしたり、温泉に行ったり、いろいろなことをした。
彼は「雀に生かされているのかもしれないな」と言っていた。どうやら家の応接の間(今や喫煙室と化している)の軒先に雀の巣ができたみたいだった。そこにエサをあげると小さな口でぱくぱくと食べている。それをずっと見ているようだった(雀1匹1匹の違いや特長を把握していて、あの子最近来ないんだよな、などと呟いていたので相当な時間雀とともに過ごしていることがわかった)
彼がいう、雀に生かされているってどういうことなんだろう。
きっと私にはまだわからないな。
夜、すごく空が大きく見える。
煙草を吸いながら彼は、「昨日さ、星がよく見えるかなと思ったら、月が綺麗すぎて駄目だったわ」と言う。
突然詩人みたいなことを言い出すからどきっとする。
ただ、当の本人は詩人的なことを言った自覚はまるでなく、普通の顔して煙草を吸い続けているのがおかしかった。
翌朝、近くの記念館に行ったら、その施設の女性が、私たちを見るや「友達を連れてくるって聞いたけど、こんな若い娘じゃないの!」と驚いて大声で言ってきた。
私(友達って紹介されてたんだ…なんかすごく嬉しい)
おじいちゃんは、私たちを友達と紹介していたことがバレて恥ずかしそうにしていた。
そうか、新たなおじいちゃん兼友達か。いいなあ。
帰り道、段ボール2個分のお土産を持たせてくれた。
内容:立派なかぼちゃ丸々一個、トマト、茗荷、玉ねぎ、なす、ピーマン、自家製梅5パック、福島の日本酒、白ワイン、しみもち、イワナのジャーキーなどなど
私こんなに食べきれないよ!と言ってもこの量を渡してくる。
そうこうしているときにポロッと「いつも多めにあげるようにしてるから。誰かにあげたらいいよ。」って言われた。
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私が亡くなったおじいちゃんに会えないという事実は変わらない。
亡くなったおじいちゃんとの思い出は、それはそれとして色褪せない記憶であり、塗り替えられることはない。
ただ、私はおじいちゃん的役割に飢えていた。
だから、新たなおじいちゃん兼友達にその役割を重ねてしまっていたのかもしれないと思う。
前に見たNetflixの「セックスエデュケーション」で、メイブが友達のエイミーに「私たちの母親は時にクソだわ。だから、今日から私たちがお互いの母親になろう。」と言っているシーンが好きだったことを思い出した。
実の母親、おじいちゃんとの記憶や思い出はそれぞれあって塗り替えられるものではないけれど、役割としての母親像、おじいちゃん像は誰に求めたっていいじゃないの。
(友達の皆さん、私はあなたの母親にだっておじいちゃんにだってなれますよ。困ったらご連絡ください。)
私はこれからも福島に行く。おじいちゃん兼友達に会いに。福島は、私にとって故おじいちゃんを偲ぶエモーショナルな時間にもなり、それと同時に新たなおじいちゃん兼友達との時間も蓄積されていく。まだ何度も会いたいからいつまでも健康でいてほしい。
次はまた、山菜の季節に。
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