聖アンデレを讃えて

キリスト教の第一の聖者である聖アンデレは、3つのエピソードで知られています。そのいづれにおいても聖アンデレは、誰かをイエス・キリストに引き合わせています。コミュニケーションの達人です。

先ず、弟であるシモン・ペテロ(のちにローマ教会をつくります)をイエス・キリストの前に連れてきて、イエス・キリストの弟子にさせました(ヨハネによる福音書1.40以下)。後には、同郷のピリポに相談を受け、(ユダヤ人以外、つまり初めての異邦人宣教として)ギリシア人をイエス・キリストに引き合わせています(ヨハネ12.20)。

これが、聖アンデレは、史上初のキリスト教徒(Protokletos)であると同時に、史上初めての伝道者(Ambassador)と言われる基になっています。

これに加えて、「5つのパンと2匹の魚」のエピソード(ヨハネ 6.8)も有名です。大麦のパン5つと魚2匹をもった青年を、イエス・キリストに引き合わせました。このパン5つと魚2匹で5000人もの人の食事が充分にまかなえたと伝えられています。

この話は、数量が余りに異なるため、現実的な話ではない、という向きもあります。私は、現実にどうだったかは知りません。しかし、可能性としてはあり得る話と思います。

なぜでしょうか?

仏教でいう「三尺のお箸」という譬え話を思い出すからです。

【三尺の箸】(tale of 1 meter chopsticks)

ある人が死ぬ前に見学したいと思い、極楽と地獄を見に行ったそうです。

まず地獄に行きました。ダンテの地獄篇の最後にあった通り、人々が地獄の食卓に縛り付けられている姿が見えたそうです。そこに住む人は私達と何一つ変わらない普通の人の姿でした。食事も普通にやってきます。その食事を食べるには一つだけルールがあり、それは、三尺の箸を使わなければならないというものです。

三尺とは箸の長い様を言ったもので、実際には1メートルにもなる長い箸です。食事時にごちそうが運ばれると、そこの住人は他人に取られてなるものかと、ごちそうめがけて我先に群がります。しかし、1メートルのお箸は長すぎて誰一人として自分の口に入れられません。

しまいには他人がつまんだ食べ物を横取りしようとする者が現れ、「それは俺のごちそうだ!」とばかりにそこいら中でけんかが始まり、結局誰一人としていつも食べることが出来ないそうです。

既に亡くなった方ばかりなので、それ以上のことはなく、いつもひもじい思いを味わって、余計に怒りっぽくなり、喧嘩しやすくなってしまうのですね。

次に極楽に行って見ます。そこにいる住人も私達と同じ姿です。同じように、ごちそうが運ばれて来ました。極楽もやはり1メートルもある長いお箸で食べなくてはなりません。

しかし、極楽では、手前の人がごちそうを箸でつまむと向かいの人の口に運びます。「大変美味しゅうございます。あなたもいかがですか?」と、お互いに自分の箸で向かい相手の口にごちそうを運ぶのです。

皆さんそうして食事を楽しみ満足し、お互いにありがとうございましたと感謝しあっていたそうです。

地獄と極楽、何が違うのでしょうか?

相田みつをさんの言葉ですが、「奪いあえば足りぬ、分かちあえば余る。奪いあえば憎しみ、分かちあえば安らぐ」というものがあります。

しあわせという言葉には、いくつか書き方がありますが、「仕合せ」とも書きます。お互いが仕えあい、支えあえば、人は仕合せになります。自らを省み、他人に尽くす。その気持ちで、自分が充足していると思えば、それ以上もとめず、不足ある人に適切にいきわたるよう配慮しあうことが大切です。

アンデレの奇跡も、まさにこのようにしてなされたと思います。

本当にお腹が空いている人、我慢できない人以外、パンや魚を取らなかったのではないでしょうか? そして、そのように適切な自己申告を皆ができたのは、「この人に対しては嘘はつきたくない」と思わせたイエス・キリストや聖アンデレのご人徳によるものではないでしょうか?

私達の心は、地獄にもいれば、極楽にもいます。一人一人の心の中に協調の心があると、そこが極楽の世界になる。なるべくならば、極楽の境地で協調して過ごせる心持ちでいたいものです。そして、それは、柔軟で、信頼をベースとしたコミュニケーションが出来ないと達成することはできないわけです。

人々が”よりよく生きる”ためには、より良い コミュニケーションをとるリーダーが必要です。

その理想の姿を聖アンデレが示しておられるのではないか、そう思うのです。

13世紀の修道士ウォラギネが書いた『黄金伝説』が聖アンデレについて書いたエピソードの第10話に、悪魔との問答があります。

悪魔 「神さまが小さなことでなされた最も大きな奇跡はなにか?」

聖アンデレ 「すべての人間の顔だちがちがうという奇跡です。世界の始まりから終わりまで、寸分ちがわないおなじ顔をした人間がふたりと見つからないという奇跡です。」

この回答は、どんな人間であれ、一人ひとり他人とちがうから尊いし、違いを楽しむから人生は豊かになるということを聖アンデレが重視していることを正に示しているのだと思います。

聖アンデレは、コミュニケーションの達人(the Great Communicator and/or Network Catalyst)として、世界に見本を示してくれているように思います。



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