カンピ先生

カンピ先生(韓非子)は、紀元前280年頃に生まれ、紀元前233年に亡くなった思想家で、「法家」の大家として知られています。

古代中国を初めて統一した始皇帝が、まだ統一を目指していた頃にカンピ先生の文章を読んで感激し、自国に招いて教えを乞おうとしたと言われています。

人と人が交わり、集団で生きていく以上、どのように人々をまとめていくか(これを「政」(まつりごと)といいます)は、難問です。論語の世界では礼や徳を重視しますが、カンピ先生は、まずルールが大切であると説きます。礼や徳では、より多くの人をまとめ上げることが出来ないからです。この点は、師匠である荀子(紀元前313年頃~紀元前238年頃)からの影響もあるのかも知れません。

【補足】 荀子は、斉という国で優秀な学者を集めた組織(いわゆる「稷下の学士」)で学長職を務めたほどの高名・有能な儒家でした。「人間はもともと際限のない欲望に突き動かされる存在であり、そのまま放置すると、奪い合いや殺し合いによって社会は乱れてしまう。そこで、人々の欲望を一定のルール(礼)で規制し、学問を修めるなどの努力を払って善に向かうべきだ」と説きました。実力主義や成果主義を有効な施策として認めたのも大きな特徴です。

しかし、ルールは、現実とかけ離れた場合には、まったく意味のない規定になってしまいます。「プロクルステスのベッド」のエピソードは、他人事ではありません。

【補足】 プロクスルテスは、エレフシナ(ギリシャの都市)の郊外にアジトを構えた盗賊と言われています。アジトには鉄のベッドがありました。通りがかった人々に「休ませてやろう」と声をかけ、アジトのベッドに横たわらせるのですが、もし相手の体がベッドからはみ出したら足を切断し、逆に、ベッドの長さに足りなかったら長さが合うまで、体を引き伸ばす拷問にかけた、と言われています。アテナイ建国の王で怪獣ミノタウロスなどの退治で勇名を馳せたテセウスによって退治されました。「プロクルステスのベッド」は、このエピソードを踏まえ、「自説を補強するために都合のいい部分だけを取り出し、むりやり自説に合わせてしまうこと」や「こじつけ」などの意味で使われています。

カンピ先生の文章が古典として支持されてきたのは、人間性への洞察力に優れているからです。法家は時に厳しい(厳しすぎる?)ルールを好む傾向にありますが、カンピ先生ご本人の文章には、人間への深い愛が感じられるでしょう。

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