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昨日と今日と明日の広告

トライバルメディアハウスの社内勉強会「TPA」にてコミュニケーション戦略を学ぶということで、主に広告の本を読んでいる。

私の所属しているトライバルメディアハウスは、様々な(主にBtoCの)企業にマーケティング支援を行っているマーケティングカンパニーだ。

その支援の中には当然「広告」も含まれる、というかトライバルメディアハウスの売上の大きな部分が、クライアント企業から見ると「広告費」という枠から支出されている。

そんなわけで会社的には大事な「広告」なのだが、私は入社してから基本的に自社事業に携わっていたたため、広告業界とか広告の仕組みというものには触れていないまま今に至っている。

今回は良い機会なので広告について基本から学んでみることにしたい。



「広告の定義」に広告が嫌われる理由が書いてあった

ソーソン(Thorson)とロジャース(Rogers)は、アメリカで使用されている20の代表的な教科書等にある定義を調べ、「有料」「識別されたスポンサー」「マスメディア(大量伝達可能な媒体)」「説得意図」の4点がこれらに共通する要素であると指摘した。
:【現代広告論】より

現代広告論(有斐閣アルマ)の初っぱなにこれまでの「代表的な広告の定義」が書かれている。

全ての広告には「説得意図」がある。

当たり前のことである。

当たり前のことではあるが、しかし実際のところ見知らぬ人にいきなり「あなたを説得したいのですが」と声を掛けられて「ぜひお話を伺いたいです!」と応えてくれる人などいない。

帰結として、全ての広告は接触した人々を説得したいが、そのためには説得したいということを別のなにかで誤魔化さざるを得ないということになる。

広告とは、そうした後ろ暗さを定義付けられた存在だったのだ。

のっけから広告を否定するような書き方になってしまったが、しかし私自身は今回あらためて広告の定義を読んで、広告の魅力というものもわかったような気がしている。

人類の歴史は正直者がつくったものではない。

見たこと聞いたこと思ったことをそのまま素直に伝えることしかできなかったならば、人類はいまだに石器時代にいただろう。

「権力を握って好き勝手したい」という後ろ暗さとそれを覆い隠すための正当性の主張が政治を生み出し、「人気ものになってチヤホヤされたい」という欲望とそれを覆い隠すための正当性の主張が文学を生み出し、「色々怒られそうだが自分が作りたいものを作りたい」というわがままとそれを覆い隠すための正当性の主張が芸術を生み出した。

人類の歴史は多分に後ろ暗さとそれを誤魔化すための努力によって前に進んできた。

それは人間のクリエイティビティが、後ろ暗さを誤魔化そうとするときに最も強力に発揮されるという性質のものだからだと私は勝手に思っている。

広告というものが多くの人々に嫌われる一方で広告業界が就職先として人気があるのは、決して実入りがよいというだけでなく、そこに人の営みの最も魅力的な部分の一端がチラついているからなのだろう。



昨日の広告:あの頃みんなは暇だった

完全に脱線してしまったが、「広告」というものの誤魔化し方に人間の面白さが内包されているとはいえ(あるいはそれゆえに)、広告は本質的にはツラいものである。

しかし、そのツラい広告が今よりずっと許容されていた時代があったことは認識していなければならない。

「あなたを説得したいのですが」というメッセージを内在した表現が、それでも許容されていた時代はなぜ存在し得たのか。

答えは「みんな暇だったから」だ。

情報化社会とは言われていたが、今と比べればまだまだのどかな時代で、世の中に流れている情報量は限られていた。だから広告も消費者の情報取得の一手段として重要だったし、他に娯楽も今程は多くはなかったので広告自体をエンターテイメントとして楽しんでくれてもいた。
:【明日の広告】より



今日の広告:広がり続ける世界と同じ速度で走れ

しかし時代は変わった。

このように、ネットの出現で消費者による ボトムアップ社会ができ上がっていったわけであるが一方でふたつの大きな流れが社会の底流として起こっていた。
そのひとつが情報洪水である。
~中略~
もうひとつは成熟市場。
:【明日の広告】より

※完全に余談であるが、佐藤尚之(さとなお)さんの「明日の広告」は今読んでも全く古べておらず、インターネットの影響力を過大にも過小にも評価しないバランス感覚で書かれており、あらためてマジすごいと思わされた次第。

インターネットの出現による「消費者の発信力・影響力増大」と「情報洪水」、そして市場の成熟化によるメーカーやサービサーの差異化難易度の上昇が消費者の立場を相対的に引き上げた。

端的に言うと「暇だから観て/読んでもらえていた」広告は「暇じゃなくなったので(暇をつぶす手段の方が暇より多くなってしまったので)観て/読んでもらえなくなった」し、広告が多少なりとも持っていた「他の製品/サービスと違う(あなたにとってよりよいモノ/コトについての)情報を提供しますよ!」という価値もわずかなものになってしまった、ということだ。

ではどうするのか?

さとなおさん曰く

あらゆるメディアを最適に組み合わせて、効果の最大化を図り、そこに部分最適化された優れたクリエイティブを載せるのだ。
:【明日の広告】より

とのことで、情報大爆発前の定番マスメディアであるTVや新聞・雑誌だけで広告のプランニングをしてはいけないのであると。

それは新たに出現したインターネット上にあるUGCだったり検索結果に対するSEOだったりだけでなく、メディア・クリエイション(いままでメディアと思われていなかったものを、アイデアによってメディアにしてしまうこと)まで含む、広がり続ける消費者とのコンタクト・ポイント上でのメディア・ニュートラルでクロスメディアなアプローチなのである。

この1パラグラフに含まれる横文字とカタカナの分量だけをみても、今日の広告の大変さが少しはうかがえるだろうか。



明日の広告:または広告とそれ以外のなにか

そんな時代に追いつくための努力を重ねても、増えすぎた(そしてさらに加速を付けて増えつつある)情報の洪水の中で、広告の届け手ができることはますます少なくなっていくように思われる。

さとなおさんは「明日の広告」の中で、広告を「ラブレター」に例えて色々な変化をわかりやすく解説してくれているのだけど、ここに書かれているのはラブレターの文面や渡し方の話だけではない。

購入後にこそ、ブランド・イメージができる
ラブレターを渡したあと長いつきあいが始まる。そして彼らによって、より強いクチコミが生まれ、ブランド・イメージも醸成される
:【明日の広告】より

ちょうど(別に合わせたわけではないのだろうけど)先週、代表の池田が書いたnoteの内容がまさに上記の「長いつきあい」についてのものなので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

しかし、これは果たして広告と呼べるものだろうか。

「明日の広告」にはさとなおさん自身が手がけられたスラムダンク一億冊感謝キャンペーンの事例も紹介されている。
(スラムダンクが好きな人はこの章を読んだだけで泣きそうになると思う。未読の人はぜひ読んでいただきたい)

たしかにその事例は素晴らしい。素晴らしいが、しかしそこで「明日の広告」と呼ばれるものは、消費者とのすてきな関係を生み出し、そして長く保つための「広告と広告以外のなにか」であるような気がする。

「明日の広告」を読み終えて、本当によい本だなと思っているのだが、ただ一つささいなツッコミを入れるとするならば、この本で書かれている大切なことは、もはや「広告」という言葉の中に押し止めることはできないのではないか、ということだ。

それに代わる言葉を私が紡ぎ出すことはできないのだけど

でも、ネット出現後のブランドとは「消費者の中に長く維持される愛」のことを呼ぶと思う。
:【明日の広告】より

愛を長く維持するために必要なものは、愛でしかないようにも思う。

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