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道徳の授業を、いつもどこでも何度でも

その日は長距離ドライブだった。
早すぎるだろうと怒られてしまうかもしれないが、三十路近くが久々に集まると、階段が辛いとか、徹夜が無理とか、カラオケで声が枯れるとか、歳とってきた系トークで大抵盛り上がる。
と同時に、どんな子どもだったとか、大人になったと感じた瞬間とか、ルーツを辿る系トークも盛り上がるものだ。
どんな経緯だったのかは忘れてしまったが、道中、同乗者がこんな投げ込みをしてきた。


「小学生くらいの授業でまだまともに覚えてるものってある?」


「えーなんだろな。みんなの歌とか?」
「道徳なんだけどさ、汚れた雑巾をそのまま捨てようとした子どもが、おばあちゃんにもう一度感謝を込めてちゃんと洗ってから捨てるのよって教わる話があって。あの話にグッときたのは何でだかすごい覚えてるかも」
「え、わかる。私も捨てる服とか一度洗濯してから畳んで捨てるタイプ」
「穴の空いた靴下とかは雑巾にして端っこ掃除してから捨てるとかね」
「わかるー」

わかるわかるの共感オンパレードだったなか、1人の友人が口を開いた。

「え、でもそれ正義対立してない?洗ったら水が勿体無いし、洗剤使ったら環境汚染じゃん」


その言葉を聞いた時の「わかる組」の瞬間的な反応としては、正直以下のようなものがあったと思う。


この堅物が!そういう話じゃないだろーが!


いや、だが冷静に考えてみよう。

そういう話なのだ。
道徳とは、人が社会生活を行う上で従うべきルールであり、良心に従って善を行うことだが、多様な善があるからこそ、それは対話されて然るべきだし、自分なりに考え、自分なりの基軸や他者・一般の基軸を理解する道を歩み続け、徳を積んで生きていくための授業なのだ。

であるからにして、先ほどの
この堅物が!そういう話じゃないだろーが!
という否定は実に間違っている。

確かに、私たちは限りある資源を大切にしましょう、環境破壊に繋がることはやめましょう、とも教わってきている。
一概に、雑巾を洗って捨てるなんて資源の無駄だという考え方も否定できない。


でもなんだろうか、このざわざわした気持ちは。
このざわざわした気持ちを紐解いてこそ徳のある道が見える気がする。


そこから車内はこの話のどこに違和感があって、どこが納得点なのかを探す時間と化した。

川で洗うんだったらいい気がするね、
でも洗剤使うのはダメだよね、
モノを大切に扱うっていうこと自体には誰も異論はないじゃん、
服は洗って捨てるのは有り無しでいうと…それはみんな有りなんだ、
へーじゃあ、服と雑巾でなんでこんなに対応違うのかね…

面白い。
得てして多数に共感されているものは暗黙の正解になるものだが、いざその正解に疑問を投じてみると、いろんな問いが出てくるものだ。

雑巾はさ、使い倒されて汚されてナンボじゃん。誇り高いと思うんだよね、汚れた方が。
…なるほど。

洋服は、洋服自体が誰かを綺麗に着飾らせるために生まれてきててさ、洋服自身が綺麗であってこそ誇り高い気がするじゃん。
…なるほど。擬人化するとそうかもしれない。

つまり、皺を刻んで日焼けしてありのまま大往生してこそ幸せな雑巾と、最後まで白髪も染めて化粧して綺麗に生きていたい洋服とで、向かいたい終末の形が違いそうだと。面白い。

モノを大切にする、ということ自体は大切であり、粗末に扱うこと良しとする訳ではない。
ここまでは共通解である。
しかし、モノに対する使い手の敬意の払い方は違いそうなのだから、一概に洗って捨てるのが善というメッセージを届けるのはいかがなものか。
正解の押し付けなのではないか。
いいお話でしたね、真似しましょうね、というまとめ方をされたら、たまったもんじゃない。


この話は結論、そういうことだった。


非常に考えさせられる時間だった。
かつて、こんな会話をした道徳の授業があっただろうか。
私が教員であったなら、それって水質汚染じゃないですか、と問いかけてきた批判的思考のお子さんを上手く受け止められただろうか。
なんとなく流して、そういう意見もあるね、くらいに留めてしまっていたかもしれない。
そうだったとしたら、きっと彼/彼女はとても恥ずかしくて寂しい思いをするだろう。
自分は間違っていたのかと。やっぱり一般的な正解は洗って捨てることなのだと。
そしてきっと、少しばかり違和感があっても、善さそうな答えであれば納得して口をつぐんでいく大人になっていくのだ。
同質的であるというのは角も怖いことなのである。


道徳に正解はないが、先人たちから徳が高いとされてきた道は「ある」。
だが、それを鵜呑みにするのではなく、多様な人がいて、その人なりの考え方を共有しあって、初めてその道を「拓ける」のだ。
それが正解に程近いものだと難しいことだってある。周囲の共感の空気がわかるからこそ、場の空気を読んでしまうのは、きっとよくある光景だ。
それでもなお、
「でもそれ正義対立してない?」
と言ってくる友人には本当に感服するし、そういう多様な人たちと時間を過ごすことで世の中は本当の意味でちょっと良くなったりするんじゃないかなと思ったりする。


※20201115 天狼院書店ライティングゼミ投稿エッセイ

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