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弱さと向き合うことがありのままの自分を大切にすること コラム18

  
 ありのままの自分を大切にするときに障害となるのが自分の弱さです。弱さがあってよいとはだれも教えてくれません。むしろ、無くすように努力を強いられるわけです。

 「弱さのちから」(若松英輔 亜紀書房)という本の帯にこのような一説が書かれています。

強くあるために勇気を振り絞ろうとする。だが、そうやって強がろうとしても勇気は湧いてこない。勇気は自分の「弱さ」と向きあいつつ、大切な人のことを思ったとき、どこからか湧出してくる。

 強さのための勇気は正確には「強がる」ための虚勢として受け止められかねません。ただ、それが周りにはバレていないという思いでもって言葉を語りどんどん「強がる」が強められ、とうとう背伸びできないところに達してしまいようやっと自分の弱さに気づくことができます。

ただ、ここに分岐点があります。というのは、ここで弱さを向き合うことを選択するか、再び強がろうと策を弄するか。ここがありのままと向き合うときの分かれ目です。

 弱さと向き合うことは本当につらい。できればやりたくない。強い自分で在ることを自分も認めたいし、人にもその自分で認めてほしいのです。しかし、それは我であり傲慢さでもあります。人間はもともと弱い存在であるということを知って、そこと向き合い、受け入れていくときに、ありのままの自分と出会えるのだと思います。

 とはいえ、一人で向き合うのは辛いわけです。なので、分かち合える仲間が必要になります。「私も弱いあなたも弱い、そうかそれでいいのか」という安心もあるでしょうが、これでは傷のなめあいになりかねません。ここで言う仲間とは、あなたの弱さ、素晴らしい、弱さと向き合えるあなたはステキな存在だと互いに尊重しあえる関係です。

聖書にある言葉は励みになります。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだからキリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント人への第二の手紙 第12章 9節)

これはコリント教会という問題だらけの教会にパウロという使途(キリストの福音を伝える使命を持った人)が送った手紙の一節です。

強くあろう、強くあらねばならない。そのために努力を重ねる。脱落するものは努力が足りない。頑張り続けて、他人を責める世界に一石を投じる一節だなと思います。

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