台本表紙

上演前に公開する終演後に見て的なもの Ver.3

アトナンカの ありがとう高橋です。

勝手に。

上演前に。

「農耕民族史B最終講義」について。

書いておきます。

画像1

裏話のようなことを言うと
農耕民族史B最終講義にはかなり他の作品へのラブレターのような側面があります。

たとえば「ゴドーを待ちながら」

農耕民族史B最終講義と関係があると思うと沢山そう見えるでしょう

しかしだからと言って
ゴドーを読んでから農耕民族史B最終講義を見るべき
なんて事はありません



作る側として事前知識が必要な作品は受け取り手にハードルが高い印象を持っていますし、パロディーはしばしば
「これの元ネタ分かる奴はこれで笑える」状態をつくっています(オタク的ですね。)それで情報マウンティングが発生しています。

正直言ってこのような作品は創りたくありません。


情報マウンティングは他の面でもあると思います
演劇の上演に関して言えば、事前に作品や団体について知っている人が多く見に来ること。(見る人間もやる人間も演劇をしている状態も含む)


又は難解な演劇などと言われる方面にある
「ポストドラマ演劇」とか
「コンテンポラリー」とか

演劇にまつわる色々な情報群を
持っていないといけないような気がしてくる

のです。

何故このような意識になるかの点では、教育が、知識量に重きを置き過ぎた結果だと私は考えていますがね…。

はい、話を絞ります


つまり
知る知らないの格差を減らしていく為に
「等しく分からない作品」が必要だと思うのです。


アトナンカの農耕民族史B最終講義は、知っていると面白いかもしれない情報はありますが(ありましたが)

知らない場合を基本にしてつくっています(作りました)


とにかく

お客さんは手ぶらで来て
未知に触れるのがいいなと思っています。


舞台は何が出現するか分からない危険な場所です
宇宙みたいなものですよ、多分

農耕民族史B最終講義では

何もない地平とそこに穴を掘る二人が登場します(登場しました)

本作では具体的でディティールの欠けたすごくあやふやな事が多いです。
抽象的です。

心配としては、未知なモノ(まとまった知識があまり通用しないモノ)
に出会った観客がそれを

「難解だ」とラベルを貼り、

「わからなかった」とコメントしてしまう場合のことですね………………


演劇作品が実演である以上その行為・現象を解釈するのは観客です。
そう思っています

なので解釈されるパーツについては沢山の考察や
分かり易さと分かりにくさの境界を触るような作業でした。


演劇が作者の解釈されたものを見せつけられる時間であるならば、私は疲れてしまいます。トイレに行きたい。


上演をみた人の眼にどう見えたか交換してほしいのです。観客の前に現れた未知をどのように解釈したかという議題で話して欲しい。

そこにどのような未知の解釈があるか、待っています。
(あまりにも解釈がバラバラだと私は作品を考え直さなければなりません)

見て終わりにならないものにしたい

演劇という行為・現象を解釈する姿勢が
人生やこの世界全体にも活用されると良いですね。

あの世界とこの世界について

どう解釈したか聴かせてください


ありがとうございました。


アトナンカ

ありがとう高橋

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