【期間限定公開】Re:ポスト・風景論
2024/6/28-30
i wanna be you
10:00~17:00
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Re:ポスト・風景論
エキシビジョン&ショップ
この度はここまで来ていただきありがとうございます。初夏近いころ、都心が遠い、川近い所で、ささやかなイベントとして「Re:ポスト・風景論」を行うことにします。しました。多摩川も見ていって下さい。本イベントはテキスト・作品・販売で出来ており、写真を撮る事を勧め、風景の範囲を広げ、テレビゲームを肯定します。貝の入ったスープパスタみたいにバラバラですが食べれば一緒と言う事でよろしくお願いします。
イントロ
二~三年前から私は毎日の写真撮影を始めました。毎日撮るせいで観光地・好天・美食といったものを押しやって既製品と近所を写した写真が膨らんできています。同じものを別の時間に撮影することは何かを再考する契機をもたらし、展示についての問題が引き出されたので写真の話をします。
ここでは前提として非・専門家による写真の変容について書こうとしていて、唐突にSNSでの写真の扱われ様を話題にする部分があります。なぜならスマホ以後の写真の多くが見ることや見られることをより強く引き受けたものとしてあり、例えば誰にも見せていない写真もアプリケーションが見る(解析する)事で分類したり、人間が見やすい様に自動補正を行うなど恣意的な写真の在り方から逃れられない状況にあるからです。
始めた写真の置かれる状況について
地上のほとんどが写真に写り・加工され・交換され終わった世の中で、「写真を始める」のは誰かが既に写真に収めたものを自らの手で撮影し直す=位置付けし直すことかもしれず、再発見でしかないのかもしれません。そうした撮影し直す行為では、自身が刹那に感じていること(無形のもの)が重要になり、被写体(有形のもの)は写真を撮る人の増加もあって均質化していくでしょう。直接写真に写らない無形のもの、刹那に感じている感覚や記憶(=コンテクスト)は写真に添えられる投稿文や詳細/ALT/代替テキストによって発信され、写真とニコイチの関係を結びます。
無形のもの
ニコイチの関係は写真の総量が増えた結果、写真に写るものより写真を撮ることに帰属する感覚や情報が重要になった事を示します。例えば2016年4月の熊本地震の際、町中にライオンが居る写真に「おいふざけんな、地震のせいでうちの近くの動物園からライオン放たれたんだが 熊本」という文章が添えられたTwitterの投稿が、熊本地震で動物園からライオンが逃げた写真として見られ事件となりました。
自身で撮影した写真とネットで拾ってきた画像が混在する今、AI生成といった方法や真贋、ファクトチェックを含めた“背景情報”は重要となり、撮影者/投稿者は情報が正しく明解でなければならない情報倫理的な正しさを抱える面があります。写真と情報の関係は、撮った写真とネットに転がっている画像を区別する為にも必要です。
風景は状態そのもの
背景情報には写真だけを見ても分からない情報を補助することが期待されます。しかし、見れば十分に分かる写真というのもありえます。その一例として風景写真を挙げます。風景の条件を拡張していこうとする本稿による大胆な風景写真観となるかもしれませんが、風景写真とは複数の物体(木や建物、人工物・生物を問わず)一つ以上のものが写っている写真なのではないでしょうか。複数の物体が写った写真は写真の意図そのものを曖昧にさせます。どれかを写したのではなく、それぞれの関係性や全体としての印象や状態を捉える所に写真があり、それによって「何かを見ようとしている」より「見たまま」に近いはずです。
写真に情報の明解さが求められる状況に対して「見たまま」はとても無邪気なものです。再現できない瞬間の全てに説明をつけることはできず、映り込んでしまった人物をたまたま見てしまったものと同じように許容させる力、明解さや情報倫理的正しさが必要な写真を取り巻く状況を「見た風景」という無邪気さで通り過ぎる力を感じます。また人が居ない空間の写真も風景写真の範囲になるでしょう。複数の物体を捉えた写真はどれかにピントが合う事でぼやけた後景という奥行きを持ち、深い被写界深度によって全てが写っていた場合は鑑賞時に、注視点の移動によって複数の物体に時間的な奥行きが生まれます。
有形のもの
感光板やフィルムという本当に有形のものから写真が離れたデジタル以降、写真が画像とぬるりと混ざり、カメラ付き携帯以降その数は増殖し、“写メ”以降手元の写真データは送りあう可能性の中にあって、ソーシャルメディア以降誰もが見る可能性のある一枚であって、誰かの写真と私の写真は比較・コピーでき、画期的で画一的な端末で撮れる写真によって撮影者自身(のオリジナリティ)が交換可能性に晒される。
現在のカメラは「見たままの写真」を実現しています。現実という有形のものを見る行為は写真を撮るという行為とシームレスになり、先述してきたように写真がその表象よりも無形のものに左右される状況の中で、写真の表象そのままである風景写真は特異なものです。
かつて写真を撮る事が現実を光学的範囲で平面状に変換するイリュージョンだったと想像できますが、地上のほとんどが写真に写り・加工され・交換され、平面に変換され終わった世の中で写真を見ることは撮ることより感動を生みにくくなっているのかもしれません。「写真を始める」とは言っても「写真を終える」とまでは言わないのは、写真にすることがいつまでも途切れない現実を中断できる、新しい“はじまり”だからなのではないでしょうか。つまり誰にとっても、撮影され終わった世の中を見るままに写真にし、写真から現実を“再発見”する感動によってまだまだ写真は増え続ける事ができるのです。
二章
フィクションネイティブ世代
写真を撮ることはサイコーですと言って終わるわけにはいかないのです。タイトル回収もまだなのです。写真を舞台に記録される有形のものと記録されない無形のもののニコイチの関係の行方を辿って、写真よりも撮影の行為と現実の再発見が感動を生むとしました。これについてもっと詳しく続けます。写真を通して現実を再発見する上で今やスルー出来ないことがあります。それは…「ジブリみたいな写真」という言い回しのことです。「現実を写した写真から再発見したのはスタジオジブリのアニメの絵柄」という意味ですが、「ジブリのアニメが写真の様に見える」ということでは最早ない事に注目するべきです。
私たちは様々なメディアを通じて実際の景観やそれに似せている架空の景観に触れることで、写真・画像・実際の景観をアタマの中で同じように記憶しているのではないでしょうか。これを訳あって“記憶のイメージ”と呼びたいと思います。平面に描かれた絵と実際の景観を照らし合わせ、同じものとして扱うことができるのは人間の学習の成果だと言われています。その先に存在しない景観と存在する景観を同じ様に扱うことができ、「ジブリっぽい写真」と言って伝えられるようになるのです。
撮影行為だけに限らず誰かの写真“そのもの”を見ることよりその写真の中に似た別の景色を再発見する感動の方がありふれたものになりつつあると私は考えています。写真を見て受け取る表象が再発見なのではなく、表象から記憶のイメージが引き出されて再発見となっていくのです。写真と画像、有形と無形、現実と虚構、対立させられる概念が混在し同時に増殖する現在を「虚構より現実を見ろ」という様な固まった二項対立を探していくのではなく、どう認識するかが課題です。フィクションが産湯に溶けてきている世代には現実もフィクションも両方迫ってくる力があるのです。
風景論
先に訳を言わずに“記憶のイメージ”を登場させましたが、菅原潤の『環境倫理学入門』(2007)から来ているワードです。菅原は、勝原文夫(1923-2017)の論を引きつつ風景と景観を“「風景」が見る側の記憶の要因が強く関わるのに対し、「景観」は見る主体の要因とは関わりなくある単なる眺め”と区別して、沢田允茂(1916-2006)の“知覚の上に「記憶のイメージ」を付け加えることで「風景」が完成する”論を紹介しつつ、加藤典洋の風景化論と結び付けています。菅原は環境倫理の点から風景論を扱いつつ、登場する言説は哲学者や文芸評論家、農学者、芸術家、地理学者など多様なジャンルにまたがっており、風景論の多ジャンルさを感じさせます。松田政男の『風景の死滅』(1971)や港千尋の『風景論』(2018)も風景論ですが、どれもそれぞれの時代にそれぞれで書かれている印象があり、バラバラです。
風景論を巡る動きは2023年8月に東京都写真美術館で展覧会「風景論以後」、同年10月にも展覧会ハイドルン・ホルツファイント「Kからの手紙」で松田政男の風景論と連動した映画《略称・連続射殺魔》が上映されています。今年2月は松田と親交のあった中平卓馬の展覧会「火―氾濫」が東京国立近代美術館で開催。松田政男の『風景の死滅』を読むと、冒頭が足立正生の映画《略称・連続射殺魔》の撮影で訪れた先での経験から始まっているように、映画と一体のものとしての風景論を思わされます。中平卓馬の写真に松田政男の文章が添えられた「風景1」なども同じ様な関係性にあると言えるでしょう。
バラバラな状態
展覧会「風景論以後」の図録で東京都写真美術館の田坂博子は展示作品についてこう述べている。
この“誰にとっても風景と認識できる情景”という言い回しには風景写真のあの無邪気さを感じますし、直接的な言語化を避けている作品に松田の風景論を使用していく乱暴ともとれるキュレーションには何らかの形で抗いたく思います。
風景論は多分野で編まれており、松田のような閉じていくものよりも菅原のように多分野に架橋していく展開の方が望ましく考えます。それは結局松田の風景論も中平の写真や同時期の映画との相互的な関係無しには読み切れないものであったり、「風景論以後」の展示が風景論との直接的な関係を持たなかったり、およそ論というには感覚的な領域(例えば記憶のイメージのような)に左右されてしまう概念になっているせいです。スープパスタのようなバラバラさを纏めて一つにする事は肝心のスープを否定せざるを得ません。バラバラのまま食べればいいのです。
無邪気な力
風景を論ずる風景論というざっくりした名前のキャッチーさが、時代とともに変わり続ける開かれっぱなしの風景を、同時代に生きる者であれば誰でも扱えるような気にさせるというのが風景論だと私は考えています。その根本には風景自体の“状態そのもの”の無邪気な力があります。写真に情報の明解さが求められる現在に於いて「見たまま」は無邪気だとしていましたが、少し誤解がありそうなので補足を試みます。
正直、見たままの写真を撮れるカメラで私たちは本当に「見たまま」を目指しているでしょうか。「見たまま」は眼が捉えた視覚情報のことを指してはいません。より記憶のイメージに近いものを私たちは見ているのではないかという疑いです。フィクションネイティブの私たちは「見たまま」より「見たいまま」の現実をわがままに見るのかもしれないのです。
中平卓馬の写真の特徴としてアレ・ブレ・ボケがよく言われていますが、中平は“ブレるときもあればピントの合うときもある。そのこと自体、ぼくはあまり問題にしていない。それはたまたまそうなったにすぎないのだ。”と言っています。この姿勢は技法としてのブレではなく結果としてのブレを引き受けるもので、「見たまま」ではなく言うなれば「撮れたまま」です。風景を捉える上で「撮れたまま」は「見たまま」よりも無邪気なもので、記憶のイメージと景観の関係性をよりドライに、アタマの中を切り離して冷静に見る結果と言えるでしょう。しかし本当の意味でのフィルムカメラのような「撮れたまま」がフィルムカメラ以外では実現できないことは重いことです。
インゲームフォト
インゲームフォトはテレビゲームの中で写真を撮ることを指しています。ゲーム画面のスクリーンショットや、ゲーム自体にフォトモードがあったり、ゲーム中のアイテムとしてカメラがある場合など様々で、SNSではインゲームフォトのコンテストも行われています。しかしインゲームフォトがしばしば実写と見紛うほどのグラフィックを存分に発揮した画像であるのはありふれています。メディアとしてのゲームは広いフィールドを自由に行き来できるオープンワールドというスタイルによって風景の装置に近づいていると考えられるのです。
3Dモデリングされた地形を自由に行き来することはデジタルネイティブの私たちにとって現実の地形と近い経験となり、ゲームの景観とそれを体験することで形成される記憶のイメージが菅原の挙げたような風景化の手順に沿って風景となります。現実の風景写真と大きく異なるのはインゲームフォトの記憶のイメージはゲーム体験としてデザインされている点です。何かの目的を与えられたプレイヤーがゲームの中で同じ行動をすることはよくあり、オープンワールドゲームに付き物の「移動」は正に景観と絡む記憶のイメージとなりやすくなっています。
インゲームフォトはどうしてもそれがゲームの画像であることを感じさせるかさせないかという背景情報の明解さ問題を抱えてしまい、風景写真の無邪気な力を得ることなく非・プレイヤーに見られてしまうでしょう。景観と記憶のイメージ、そして見える形での風景はインゲームフォトではない手法を経由できるはずです。それが手描きの風景画なのです。
アレ・ブレ・ボケ
《001》から《008》までの風景画は全てゲームの景観と記憶のイメージを抱えています。しかしインゲームフォトほど完璧に「見たまま」な写像ではなく、F0サイズのキャンバスの中に歪みのブレや絵の具のかすれによるボケを「描いたまま」にしています。精緻な写真にないこの揺らぎは、ゲームの風景であることを曖昧にした上で、ゲームの景観でもなく、プレイヤーの記憶のイメージを出力している可能性を示唆しているのです。
路上の神々 赤瀬川原平 佼成出版社2002
都市 風景 図鑑 中平卓馬 月曜社2011
環境倫理学入門 菅原潤 昭和堂2007
風景の死滅 松田政男 田畑書店1971
日本風景論 加藤典洋 講談社1990
3.11以後の風景化論改訂版 菅原潤