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橋を焼き、いつか橋に成る。

いきなり他人様のYouTube動画を貼りつける暴挙をお許しください。
こちらの方の動画で、目からうろこがポロポロ落ち中です。

というのも、来月から職が変わるので、人間関係の構築…ちゃんとできる人間にならないと、と、お恥ずかしながらこの歳で…本気で思ってます。
そんなときにこういう動画があってくれる現代、とてもありがたい…😭

今の職場は、橋を半焼…くらいで辞められている…と、思っています…
あわや焼け焦げ落ちたかと思ったのですが…
他の動画で、ASDの人は会話に「正解」を求めることがある、というのがあって、まさにそれをやってきてしまった経緯があり、問答事例集みたいなものが頭の中にデータベースとしてある。
現職場の人に関しても、今までの会話内容などからデータが積み重なっていて…そこから、相手を怒らせた経緯を推察し、できるだけ早い段階で手を打ち、こちらの思いを開示した(全面抗争を望んでいません)…みたいなことで、全焼を免れた気がします。た、たぶん…。

下手にこのデータベースがあるからこそ、相手の言ってることが以前と違っているときに指摘してしまったりして、関係をこじらせるわけですが…(逆の立場で考えたら、そういう指摘はとても嫌だと思う。そういう配慮が足りていなかった)。

会話を成立させるには、みたいなことも重々気をつけて生きたいと思います。

そしてなにより、橋を焼いてきてしまった、向こう岸にいる友人などに対して、心からごめんなさい。と思う。
直接言えと。機会が巡ってきたら、そのときは。

自分というものを理解していないことが、他の人を傷つけ(続けて)しまうことってあるなぁ、と、今回思い知りました。
有休消化をさせてもらって、今は心身に余裕がうまれているから余計にそう思うのですが、いい職場だったし、いい人たちだったと思う。
(だからこそ、業務内容は今更ながら自分に合っていないことも痛感)。
辞める通達が出てから、今までお世話になった方達が連絡してきてくれたりして、本当にありがたく、地味にうれしい。
誰の視界にも入っていないだろう、誰の記憶にも残っていないだろう、と思っていたので。これも認知の歪みの一種、自他境界線の弱さかもしれず。

で、そんな人情噺(?)は横に置いておいて。
ハラスメント云々に関する難しさも改めて感じました。
第三者なら「正解」を導き出せるのか、と考えた時、たぶん、万人にとっての万事の正解ってないじゃないですか。生きている人間同士。
強いていうなら、目指す方向が類似する場合にのみ、落としどころが見えてくるかもしれない、くらいの。
だからこそ、最低限これはやっちゃいけないよね、という社会共通認識としての法があるわけですが、これも、誰もが扱えるほど簡易な言葉や仕組み、ではないわけで…(例えば中学生同士のいじめに警察が介入する…としたら、もう刑事事件として扱えるだけの加害/被害が発生した後でしかなく、学生同士という時期特有の力の均衡の中で学ぶ機会を損失する可能性もあり)。

話が変わって(もしくは変わってなくて)、さっき、チャットボットっぽいアプリに「正しい会話とは」とASD丸出しな質問をしてみたんですけど、ネットから拾ってきた模範解答を示されただけでした。そりゃそうだ。以下一部抜粋。

効果的な会話をするためには、相手の視点を理解し、質問すること、推敲することなどが重要です。

Copilotというアプリ

…。せやんな。と思って、ありがとう、と入力したら

どういたしまして!何か他にお力になれることがあれば、お知らせくださいね。😊

Copilotというアプリ

と返してくれる。Oh…会話感。
となると、ASD特性のある人は、AIとなら延々会話していられるのかもしれない。情報と正解(らしきもの)ばかり与えてくれる。望まなければ何も与えてこないし、望んだ時だけ対応してくれる。

これ、私が「本」とやってたことだな、と思わなくもないです。
でも「本」だと、誰(どの本)が望む答え(正解らしきもの)を持っているのかがわからないから、色んな本を読むしかない。
そうしていくちに、自分のデータベースが肥えて、ようやく定型発達の方に近い応答ができるようになってきた…のかな。
こういう過程も含めて本が大好きになり、どのコーナーも未知だらけで楽しかったのかもしれないです(そこには人間の暗部のようなものもあるのだけれど)。

映画も似た感じですが、映画は情報量が多いのと、生身の人間が現代でやっていることなので上級編な感じ。本や出版が下ということではなく。記憶に焼き付く量の違いというか…視覚情報に過敏なので余計にそう思います。
だからこそ過重労働やハラスメントが在って欲しくなく、性暴力や性加害や他者の希望や欲求につけ込んだ性や薬物の売買・斡旋・搾取…も、在って欲しくはなく…それには、情報の受け手としてのこちらがもっと動かなければと思い、知る…スポンサーはだいたいこちらの社会にいる人間だから、彼岸の加害じゃない。無自覚に加担していることは多々ある。暴力も。

…話が飛ぶ🤯
そんなわけで、まだ極端なところはあるけれども、屈折云十年、自分のポンコツさに心折れまくって、どうにかここまで生きて来られたんだな、と思います。ありがとうございます。
ありがたい世の中だ…

ようやく、自分が思い描いていた、人間らしい人間になれてきた気がします。とはいえ、社会はますます不安定になり、経済状況も不安は多々あるわけで、そういう大きな流れのなかで、人間一人、なにができるのか。

話がまた変わるんですけど、ガザ地区と宇都宮市ってだいたい同じくらいの大きさ(面積)らしいのです。
そういう情報に触れると、なんか一気に他人事じゃなくなるというか。
宇都宮市民が虐殺されたら、黙っていられないじゃないですか。
いや、あの人は県外の人で宇都宮に通っているだけだから殺される謂れは無い、とか、あの人は県知事の親族だからどうにか逃がそう、とか、どうでもよく、いや、知らんけど、殺すなよってなるじゃないですか。
そこに歴史とか力関係とか持ち込む以前に、殺すなよ、って思うじゃないですか…たぶん。
これ、私がASDだから、じゃないと思う。
これは、私が、人間だから、そう思う、だけだと思う。

というと、なんかご立派なことをいっているように感じる人から「自分の大切な人が殺されても同じことが言えるのか」と言われるのではないかと思う。

いや、だから、私は善人じゃないから、自分の大切な人を殺したその人だけをピンポイントで一生恨むし、殺す機会を得たら殺してしまうかもしれないけど、あくまでピントは外さない。その人を狙う。つもりでいます。
国や組織という拡大解釈をしてやらない。
だから、その恨む相手の事をとことん知ろうとすると思う。
そうしていくうちに、なぜ相手はそんなことをしたのか、その人の話を聞きたくなると思う。もっともっと説明してほしくなると思う。言い分があるなら全部知りたいと思うと思う。
殺さずに済む、赦す機会があったら、そうしたいと思ってしまう。
これもやっぱり、人間だから。というか、人間でありたいから。
仮に相手が死刑になったら、刑務官の手を汚すのではなく、自分で床の抜けるボタンを押したいと思う。責任を分散させるために3個か5個のボタンがあるのなら、足で一つずつ押したいと思う。と、思ってきた(引くほど暗い)。
でも、そうして自分の手を汚す。こうして、自分の口(言葉)を汚す。その責任を自分で持つしかない。だって、大切な人を奪われた悲しみは、私の感情、私のものだから。

他人ができることは、その制度の不備や矛盾、おかしさ、それらによって苦しみ、悲しむ人がいることを知り、なくなるものや場所がある、存続できないものがあることを知り、自分たちの代わりに行っている人がいることを知り、受け止め、よりよい方向へ変えようとすること…なのではないかと思う。と、思ってきた。他人として。どうしようもなく、他人として。
(もちろん現行法上、死刑執行を被害者遺族等が行うことはできないし、直接話を聞くこともできない)。
それが自分の代だけで叶わないのなら、記録や知識、学問体系、事例として遺していく。
それが、人間社会が構築してきた政治・司法の根幹なのではないかと思っています…いや、なんか大それた話になりすぎているけど。

転職がんばろ、の話からなんでこうなってしまうのか。
呑気に生きている罪悪感はずっとあるけれど、こうしてしぶとく生きてます。あんまり諦めてないです。けど、立派な人間ではないです。
うん。そろそろ終わります。お茶したい。

この歳になって、また1から何かをすることの不安と、それを上回るわくわくと、が、ある。
今まで関わってくれた人たちに、ろくに恩を返せないまま歩み進めておりますが、なにか、せめて、数ミリでも、未来をよい方向へ…命がゴミ扱いされない方向へ…向かいたいと思います。



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