#14 自分自身が主人公だ。
性善説と性悪説というものがあって、
性善説=人は本来生まれながらにして善である、という思想。
性悪説というのはその反対の意味であるが、僕は性悪説を推している。
どんな過ちを犯しても、
「人は本来良い生き物だからね。君も辛い事や嫌な事があって、気が迷っちゃったんだよね。君は悪くないよ。」
と言われると、一見救われるように思えるかもしれないが、どうだろう。この考え方を押し付けられたり、自分の中に核心として抱いていると、自分自身とのギャップや罪悪感に苦しめられる事があるかもしれない。
僕の考えは、"人は本来悪で、僕らが生まれる前に敷かれていたレール(常識や道徳、法律など)を辿るために、何とか悪を隠しながら生きている"というものだ。
理性を持たない動物というのは、自分自身やその家族を生かすために、他の動物を殺し、食べ物や住処を得るのが当たり前だ。たまたま知性を得た人間の先祖が、自分達のルールを作り、後に続く者達もそれに従うのが当たり前になっているだけで、生きるために奪う事を悪とするならば、動物たちは全て悪であるし、そこに含まれる人間も根本的にはみな悪である。
我々は、集団生活からはみ出さないように、知らず知らずに悪を隠す術を身に付けて生活している。
何が言いたいのかと言うと、僕たちは悪くて良いのだ。だからと言って、おおっぴらに悪事を働くと淘汰されてしまうので、悪いのは心の中だけにしておこう。人間が「悪意」と呼んでいるものは、動物としては悪でも何でもなく、生きていく上では当然の思考だ。
さて、心の中の悪を当然とした事で何が変わるかというと、人はみな自分自身が主人公で良いという事が言いたい。
誰しもが自分自身のために生きている。
自己犠牲というものがある。例えば、誰かが傷付くぐらいなら、自分が傷付いた方が良い、という考えの人がいると思うが、これも、
誰かが傷付くのを見てしまった時の、自分へのダメージ
と、
自分がその傷を肩代わりした時のダメージ
を無意識のうちに自分の天秤にかけていて、前者の方がダメージが少ない、と判断したから、表では、人の代わりにダメージを受ける優しい人、と思われている。たまたま何よりもお金を失う事が怖い人がお金にがめつく映ってしまい、たまたま何よりも人が傷付いているのを見るのが怖い人が聖人のように思われているだけだ。
誰しもが自分本意である事を当たり前として、何よりも自分が幸せである事を重要視する事を受け入れてしまった方が良い。何十億という物語(人生)がある中で、自分の物語の観客は自分しかいないのだから、せっかく観るなら面白い物語にしてしまおう。脚本も主演も観客も自分だけであり、他の誰に公開する事も無いから、恥ずかしがらなくて良い。誰にも理解されない、自分だけしか面白いと思わない物語で良い。自分なんかが、と謙遜して駄作にしてしまうのは勿体無い。自分の物語をとびっきり面白いものにするために、遠慮せずに主人公になろう。