時間について
私は時間の使い方が下手くそだ。もっと時間の使い方がうまくなりたいと日々思っている。
今日は現時点で「時間」について私が考えていることををまとめようと思う。
今を受け入れる
今日、ドライブがてら母校のグラウンドに行った。
高校の時、野球部のマネージャーしていた私にとって、グラウンドは高校時代3年間の大切な居場所だった。
今母校の野球部にはマネージャーはいない。
私たちが過ごしたマネージャー専用の部室には、鍵がかけられていた。
スコアブックなど試合に必要な物を運ぶために当時すでに壊れかけていたバッグを使っていたのだが、そのバッグがアナウンス室の最も日が当たるところに置かれていた。(放置されている様に見えてしまった)
口が開いたままのそのバッグを見て私は、マネージャーとして大切にしていたものがほかられていることを残念に感じた。
マネージャーが担っていたこと、マネージャーだけが知っていることは沢山ある。それらは今どうなっているのか、伝統が途絶えてしまうのではないだろうか、そんなことをよく考える。
また、監督も昨年度交代したため気軽にグラウンドに足を運ぶことができなくなってしまい、寂しさがある。
このことから、私はいつも思うのは
「時間の流れによる様々な変化は必然的であり、受け止めなければならない」
ということ。
しかし、やはり「あの頃」の時間も場所も人も私にとってはとても大切で、今まで生きてきた中で最も自分が輝いていた3年間である、と言える。
何事においても安定していることが何よりで変化を好まない私だが、その時のことはその時で懐かしみ、今同じことは求めず受け入れる。それが大事なのだろうと思う。
限られた時間の中で
グラウンドのすみには、野球部の部室や室内練習場が並んでいる。
もちろんこのご時世だ、誰もおらず閑散としていた。
3月、春のセンバツ高校野球は中止になってしまった。
このGWも本来ならば春の地方大会をやっているはずなのだが、それも中止。
このままでは夏の大会も危うい。
選手達は、呆然としてしまっているのかも知れない。それでも、夏の大会に全てをぶつけるつもりで、バットを振ったり走ったりシャドーピッチングをしたりと、努力を続けてもいるのだろう。
高校卒業後も足繁く球場へ通う高校野球ファンの私は、もちろん夏の大会は何とか開催されることを願っているが、野球が大好きで今野球と共に生きている選手のことを思うと、さらに胸が痛む。
特に3年生は最後の年、憧れの舞台に立つために日々努力してきたはずだ。
早まってはならないが、たとえ試合がなくなってしまっても、甲子園の舞台に立つことはできなくても、長い人生の中で言えば、それまで目標に向かって努力した経験は必ず生きるだろう。
しかし、18歳の春、18歳の夏は一度きり。二度と無いのである。
だから、大会がなくなる、これまでの努力を、想いを、ぶつけることができなくなるというのは、選手にとっては酷なことなのだ。いくら大人が「大事な経験になる」「これからに生かしていこう」という言葉をかけたとしても。
このことから私が思うのは、
「今を大切に生きなければならない」
ということ。
私は今23歳。3月に大学を卒業し、4月に社会人なったばかりだ。
今日は5月4日。
社会人として最初の1ヶ月はすでに終わっているし、23歳の春はもう終わりが近付いている。
今、この瞬間は、もう二度とやってこない。
年齢にとらわれる必要はないこともあるだろうが、それでもその年齢だから出来ること、その年齢でしかできないこともある。
高校3年生の野球選手にとっては、夏の甲子園に出場するチャンスが一度きりであるように。
今の状況のように自分ひとりだけではどうにも出来ず、悔しい思いをすることもあるかも知れない。だからこそ、今自分のために、あるいは誰かのために、すべきこと、やりたいこと、できることは何なのか?
自分に問いかけながら、この限られた時間を、日々を、大切に過ごしていきたいと思う。