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母を15歳で亡くした長女の追悼文/1998年当時執筆

高校1年生15歳の時に母を亡くした時、
母の友人らと父で製作した追悼集
【煌めいて】からの引用

飯島房代 追悼集 【煌めいて】


Forever mother 大好きな母へ心からの愛と感謝を込めて…
飯島里枝

母は日産ミスフェアレディでした


私には今でも忘れられない「夜」がある。

それは私が5才くらいの頃、夏祭りが近くの小さな公園で行われていた「夜」だった。

些細なことで父と母の間にもめ事が起きた。
口喧嘩は止まらず、たまらなくなって母が家を飛び出していった。

➖➖➖その瞬間の、アセリとも不安とも恐怖とも類似しない私の気持ち。
体の力を振り絞って母を呼んだ、あの絶叫とも雄叫びとも言えぬ声…

私は今でも覚えている。
あれは本当に心細い一瞬だった。

「母が私の前から消えてはならない」と
小さな頭脳は瞬間的に判断したのだろう。

その夜、母は私を連れて近所を車でドライブした。しばらく家に戻りたくなかったのだろう。
お祭りで母がレモン味のかき氷を買ってくれた。

その時の母の笑顔がどれだけ私を「ホッ」とさせたことか…。

あの夜から10年以上の歳月が経った。

私はあの頃の純粋で無垢な少女から随分変わってしまった。

母を何度も傷つけ、ものすごい数の口答えや反発、八つ当たり、ワガママもやってきた。たまり狂ったストレスのせいなのか、自我を抑えることのできない幼稚な自分のせいなのか。

本当は言いたくもない事を平気で言っていた気がする。私は究極のガキなのかも知れない。本当に母が死んでしまうまで分からない。本当の自分はどれだけ母を愛し、敬い、尊敬しているかは知っているのに。
もう一人の自分がカッコつけてそれを包み隠している。

「ありがとう」一つまともに言えず。
いつも口から出るのは文句。
自分がどんなに母親を必要とし、母なしでは生きていけないことを知っていながらも…。

母は頭をぶったことがない。

私の記憶にある限りでは。
どんな時でも理性を失わない。

私の悪態のせいで一時期、母はヒステリックになっていた。私を怒鳴り外へ出そうとして思い切り捕まれた手首の痛さは忘れない。

それでも寝る前にふと言う。
「反省したの?さっきはちょっと痛くしすぎた?」と。

そんな些細な優しさが父とは違うのかも知れない。

母は夜遅くまで起きている。

推理小説やミステリー物の本はどうやら明け方近くまで止まらなくなってしまうらしい。
私の受験中も時々のぞきに来てくれた。
「まだやってんの?がんばるねぇ。そろそろ寝たら?」と。
不思議とメガネをかけた素顔の母に、安心と安らぎを得たモノだった。

母の作るお弁当は、かなり凄い。

小・中学校の間、私のお弁当はズーっと羨ましがられ続けた。
「里枝ちゃんのお弁当っていっつも豪華だよねぇ。」
「里枝ママ料理うまいよねー。」
母の誰よりも高いプライドは弁当にまで及んだ。
しかし贅沢にも、その豪華で手の込んだお弁当が、私には気恥ずかしくてたまらないモノでもあった。

だから、「アルミホイルに、おにぎり2個くらい入れたもっと簡単なのでいいからね。」と母に言った覚えもある。あんまりしつこいから実際にそうしてくれた。でも、それ1回きりだった気がする。
母は子供のプライドも考慮していたのかも知れない。

母は縫い物が得意ではない。

学校にバザーで出す刺繍などは、ほとんど友達の親にお願いしていた。ミシンを使っているパパの姿を思い浮かべても雑巾ができあがった覚えしかない。

けれど、制服のスカートのほつれや、ボタン付けは「自分でやんなさいよ。これくらい。」とか言いながら、バッチリやってくれた。つくづく自分が甘えん坊であったなぁと思う。

母はデパートでの買い物が好き。

私をよく買い物へ誘ってくれた。
当時お洒落に興味のないガキだった私は、「今度、今度ね。」と、いつも面倒くさがった。

母はその度に
「あっそう。勝手にしなさい。」
と呆れていた。

でも母は1人で買い物へ行っても、滅多に手ぶらで帰ってこない。私に、もしくは有果梨に、または2人に、何かしらお土産があった。
私はそれが、異様に楽しみであったりもした。

そして有名な事だが、
母は断然アウトドア派である。

夏休みの海外旅行、温泉、紅葉、《ぶどう・さくらんぼ・いちご》狩り…。

途中の景色、その土地の名産、観光スポット、自然や人とのふれあい…。
母は、何でも体験させ、そこから何かを吸収させる。そうしなくてはいられない。

中途半端は許さないし、立てた計画は何が何でも押し進める。
それだから、体験後の感動も喜びも充実感も満足度も大きい。

母のパワーは家族3人分にも勝り、母が私たちに注いだ愛情とエネルギーは止めどなく、母という1人の人間の存在感はデカすぎる。

果たして私は、母へ、どれだけ愛情を形にできただろうか。
そして、母の中に何を残すことが出来たのだろうか。

私は死後の世界を信じていた。

手術後で、全身に黄疸の見られる末期的な症状(後から考えると)であった6月?

ひろみママとヒロミツ君も同行し、とても楽しめる体ではない母を連れ、大好きな海を求め、熱川に泊まりがけで行った。

そこで
「死にたい」という母に、私は同意した。

「ポンプ付けてても生きてきてほしい?」
私は否定した。


私はどうせ迎える死なら、安らかであってほしいことを願った。
どこか、家族4人で母のベッドを囲んで、
母の過去から-----ずーーっと…。

学生時代のモテモテ話、
進路を決めたワケ、
パパの事を本当はどう思っている・・とか。

料理のコツ、化粧の仕方、人との付き合い方、
子育てはどうだ…とか。

やりたかったコト、私にして欲しいコト…。

それから私がどんなに感謝していて、
ママを愛しているか…とか。


全てを、
全部を、
包み隠さずに話して、聞いて、語り合って…夜が明けるまで。

何も悔いなく、嘘もなく、母と別れたい、
と思った。

それなら「仕方がない」と割り切れそうな気がした。


でも実際、母には語り尽くせるほどの余力はなかった。

あれだけのパワフルな人間を、
いとも簡単にモロクさせる“ガン”。

ガンにおいては、
今の医学など何の威力も見せないと思う。

まるで実験台のように体を切り裂き、
いじくって縫い付けたかと思えば
あとは無責任に容体が悪化するのを眺めているだけ。

患者が痛みを訴えれば精神状態の問題だとか、
痛いのは当然だとか、
適当に片付けて真実を隠す。

それが、余計なイライラを作り
情緒不安定にさせていることも知らずに。

母が目に涙を溜めて言ったことがある。
「ごめんね。里枝のお嫁姿見られなくて…。」

それは、もう少ししか生きられないって意味だけれど、いくら母に「死ぬ」と言われても、誰にどんな風に母の「生」を否定されても、私にはそれを認め、自分の中に受け入れる勇気がなかった。


まさか自分の親が、ましてやこんなにも大きな存在の母親がこの世から消えてしまうなどとは…。


奇跡さえも私の親には通用するように思えた。
それに死ぬ間際には夢に、母か神様が出てきて何かお告げをしてくれるモノかと思っていた。

仮に死んでしまったとしても、こんなに結束の強い家族なら、好きな時にふと声が聞こえたり、頻繁に夢で会えたり、と不思議なことが起こるのではないかと真剣に考えていた。

しかし、それは単に私のTVの見過ぎから始まった妄想であると、現実にあっさりと母に亡くなられて気付いた。

こんなにも早いなら…と、
いろいろ後悔する。

もっと、担当医の口を割らせて、
現状を聞き出し、
自分を納得させればよかったのかな。

パパももう少し私を大人とみなして、
自分の親の現状くらい把握させといて欲しかったな…。


結局、1番の後悔は
大好きな母へ、「大好き」とも言えず、
素直な自分を最後まで母に見せられなかったこと。

けれど、ママが死んで分かったことがある。
それは、ママの代わりは誰にも勤まらないということ。
そして、ママは私の中で永遠に生き続けるということ。


※母が入院していたのは関東中央病院で、こんなに最悪な病院はないと思います。
※高校一年生の文面そのままのため、駄文であることご了承ください。

当時の原文そのままであることをここに残します

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