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モツの昇天
日没前の、夕陽が差していた時分、窓から外を眺めていると、空気の色が、どんよりとした紫色になった。その冥途の空の色のような怪しい夕焼けの中を、大粒の雨が降り始め、見る間に激しいどしゃぶりになった。
雷鳴が轟いた。耳を塞ぎたくなるような、恐怖を感じるほどの大きな音だった。黒い雲の中に、青白い稲妻が走るのが見えた。
しばらくすると、雨の勢いが弱まっていった。雷鳴も遠くなっていき、それもやがて聞こえなくなった。
薄暗い黄昏に浸された町に、夏の虫たちがかぼそく鳴き始めた。
翌朝、ベランダに出ると、眩しい日差しが目を射た。今日も炎暑だろうと思った。
わたしはベランダで、クレマチス育てていた。毎日、クレマチスの蔓が乱れないように、支柱に蔓を誘引している。
クレマチスに目をやる一瞬前に、視界のはじに、ぐにゃりと何か、黒いものが落ちているのを見つけた。
昨日の嵐で、どこかから飛んで来た衣類であろうと思い、とりあえず、クレマチスの点検をした。やはり姿形は崩れているが、けなげにも白い花をつけていて、こんな繊細そうな植物の生命力に、しみじみと敬服した。
蔓の乱れを整え、それから、《黒いもの》を処分しようと、何気なく近づき、それをつかもうとして、「あ」と、声をあげてしまった。
それはひどく大きな、ぐっしょり濡れた黒猫だったのだ。
私は困惑した。
こんな死んだ猫をどうしたらいいのだろう。庭に埋めるか。しかし、庭に運ぶには、どうしたらいいんだろう。
猫の死骸の横で、うろうろと歩き回った。
とにかく、母に報告しようと、部屋に戻った。あと、弟がまだ家にいたら、弟にも。弟はきっと、大騒ぎするだろうと思いつつ、階段を降りていった。
しかし、よりにもよって、うちのベランダで息絶えるとは。黒猫、というのも、不吉だった。
キッチンに行くと、母が皿を拭いていた。リビングでは、床に寝そべった弟が、ぽかんとした顔で、タブレットに見入っていた。なんか、対決する巨大なクワガタの動画を見ていた。
「ねえ、お母さん、今朝、ベランダ行った?」
「行ってないわよ」
母は手を止めずに、素っ気なく応えた。
私は弟にも声をかけた。
「風太! 今日、ベランダ、出た?」
弟はタブレットの画面から目を離さず、
「うーるーさーいー!」
と、甲高い声をあげた。
「ベランダ行ってみなよ! 猫、死んでるから! 黒猫!」
弟の声に負けじと、声を張り上げた。
ちょうど、弟の見ていた動画が終わったらしく、
「何だよ、猫猫って!」
と叫んで、立ち上がった。
「お母さんも見てよ」
「お父さんが帰って来たらでいいでしょ」
母は、背を向けたまま言った。
「腐ってもしらないよ」
母は振り返り、呆れたように、大袈裟に眉を吊り上げた。
「そんなにすぐ、腐らないわよ」
それでも、弟が階段を駆け上がっていく騒々しい足音が響くと、母も布巾をシンクのふちにかけ、つられるように二階に向かった。根が野次馬なのだ。私も続いた。
ベランダでは、弟が、猫から一メートルぐらい離れた場所から、UMAの足跡にでも遭遇したかのように、口を半開きにして、訝しげに目を細めて、覗き込むようにしていた。母は、戸惑うような、同情するような、複雑な表情をしていた。
「かわいそうにねえ。昨日の雨のせいね」
私たち三人は、ずぶ濡れの黒猫を取り囲んで、輪になった。
弟がじりじりと猫に近づき、猫のたっぷりとした脇腹をそうっと突いた。
すると、黒猫は、ゆっくりと、けだるそうに頭をあげ、薄く片目を開けた。
弟が、息を呑んで、あとずさりをした。
猫は左目だけ半分開けたまま、薄い舌で、突っつかれたところを舐めた。不自然なほど余裕にあふれた態度だった。
「なんだ、生きてるじゃない」
と、母は、しらけた声で言った。
猫は我が家で飼うことになった。弟が、《モツ》と命名した。弟は八歳のくせにモツ好きで、焼肉屋に行くと、必ずシロだのハツだのを注文した。
モツは、陰鬱な猫だった。愉快なことなど、まったく知らない、という雰囲気を漂わせていた。ちなみにモツは雌だった。年齢不詳だが、そうとうの年増であるように見えた。
ある日、庭にいる父が、大声で、
「誰かモツ連れて来いよ!」
と、家の人間に声をかけた。
私はちょうど玄関にいたので、家に戻ってモツを探した。モツが廊下にいたので、私はモツの両脇を持って、モツを持ち上げて玄関に運んで行った。モツは嫌がって暴れた。
「イボ蛙だ。珍しいなあ。こんなのが庭にいたんだなあ」
庭に出ると、父は足元を眺めながら、感心して言った。足元には、気味の悪い蛙がいた。玄関先のリュウノヒゲの繁みから、イボ蛙が這い出してきたのだという。
ぐんにゃりした、大きな蛙だった。皮膚がでこぼこのうえに、ぬらぬらと濡れていて、色合いも悪かった。
「モツを置いてみろ」
と、父は私に命じた。
私は、モツを、腐食した漬物石のようなイボ蛙の前に座らせた。
モツは、イボ蛙の前に置かれると、すこしあとずさって、ふうっ、と、唸った。それから、猫パンチを試みようとした。しかし、前足を上げるのだけが、躊躇していた。イボ蛙はイボから毒を出す、ということを、動物の勘で察知したのだろう。
背中を丸め、シャー、という声をあげると、背中の毛を逆立てた。イボ蛙は相変わらずどんよりとして、微動だにしなかった。
モツは、ますます毛を逆立て、喉の奥でぐるぐると唸り、フーッフーッと、威嚇を続けた。目を吊り上げて、般若の形相で対峙した。しかし、手は出せないでいた。
そのモツが、イボ蛙にパンチをくらわせた。と、同時に、後へ飛び退いた。まるで、風に煽られた薄紙のように身軽な、華麗な跳躍だった。それから、逆立てた背中を丸めながら、爪先立ちになって、イボ蛙ににじり寄っていった。
イボ蛙は、ゆさりと体を揺らし、ゆっくりとリュウノヒゲの中に潜って行った。
モツはそれを見届けると、ちょっと背中を舐めて、ぴんと上げた尻尾の先を、勝ち誇ったようにピリピリと震わせながら、悠々と家の中に戻って行った。
モツは、人間に触られるのが大嫌いだった。抱き上げると、無表情で腕の中から這い出して、床に降りた。太い前足に満身の力を込め、無表情でのそりと腕から抜け出た。
弟がモツの尻尾をつかんで持ち上げようとしたことがあった。モツは尻尾を握られただけで、心臓が止まるかと思われるような凄まじい鳴き声をあげ、噛み殺さんばかりの憤怒の形相で、弟を威嚇した。弟は反射的に手を離した。
「こえー、マジ、こえー」
と、引き攣った顔で、しばらくわあわあと騒いでいた。
その晩、弟が風呂に入っていると、珍しいことに、父が脱衣所にやってきて、「一緒に入ってもいいか」と、声をかけた。父は扉を開けて、風呂場に入って来た。
「シャンプーでもしてやろう」
と、言うなり、突然、飛び上がると、弟の頭に飛び乗った。この時、弟が発した叫び声は、キッチンにいた私と母にも聞こえた。
父は鋭いもので、弟の頭をバリバリと引っ掻いた。そして、滝壷に流れ落ちる滝のように飛沫を撒きあげて、湯船の中に飛びこみ、さらに小窓にジャンプした。つつつ、と曇りガラスの戸を開けると、わずか十五センチほどの隙間を抜けて、逃亡した。
弟が、裸のまま、頭から血を流して、風呂場から走ってきた。今起きた出来事を、興奮しながら私たちに訴えたが、何を言っているのか、その時はわからなかった。
そこへ、玄関のほうから、スーツを着た父が帰って来た。右手に鞄、左手に、毛皮から水滴を飛び散らしてもがいている、びしょ濡れのモツを抱えていた。
モツが現れて、三年ぐらいたった頃、明け方、どーんと家が振動した。実際、どーんという音もした。ベッドで寝ていた私の背中も、振動を感じた。
目を閉じたまま、何だろう……と思いつつ、また、眠りについてしまった。
偶然、目撃した父によると、リビングをのそのそと歩いていたモツが、本当に突然、家中に轟くような音をたてて、真横に倒れたのだという。何の予兆もなかったという。
「すごい音だったよ。バッタ―ン、てさ。驚いた猫だよ」
と、父は、呆れたように笑った。
それがモツの最期だった。